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2014年01月30日

「小六」と「日吉丸」に再会

矢作橋架け替え工事の為、一時的に撤去されていた「出合之像」が戻ってきました。

「出合之像」は戦国時代に蜂須賀小六と日吉丸(豊臣秀吉の幼名)が矢作橋で出会ったという言い伝えによるものです。像は矢作橋西端北側の元あった場所に再設置され、現在周りの整備工事が進められてます。ここには、旧矢作橋の親柱も保存展示されてます。写真の右端には現在の矢作橋が少しだけ見えます。

岡崎城や八丁味噌蔵を見た観光客が、矢作橋を渡って出合之像まで足を延ばしてもらえたらと思います。この付近には、日本武尊(ヤマトタケル)の伝承がある矢作神社、浄瑠璃姫の墓がある誓願寺、松平家とも関係が深い勝蓮寺、旧東海道に面して銘菓「やはぎ小町」を商う店など、見どころ・味どころがいっぱいです。

撮影日 平成26年1月24日
撮影場所 矢作町
投稿者 岡崎エクスプローラー

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2013年10月22日

郷土出身者の風景②(本多光太郎博

木村資生(モトオ)博士に続く郷土出身者の風景第二弾は、金属学の第一人者・本多光太郎博士です。博士は1870年市内新堀町(ニイボリチョウ)に生まれ、粘り強い努力を積み重ね1917年に時代の最先端を行くKS磁石鋼を発明した世界的物理学者です。
博士の銅像は市民会館の庭に設置されており、以前に当ブログで紹介しました(2013年3月28日)。
今回はそれ以外の博士ゆかりの風景を紹介します。



東公園に、生家から移築された博士の勉強部屋が資料館として公開されてます。最初の写真は資料館の外観で、二枚目は資料館の裏手にある石碑の風景です。
石碑には「つとめてやむな」と彫られてます。


本多博士は七歳の時、妙源寺の庫裡にあった桑子学校に入学しました。その後身である矢作(ヤハギ)南小学校に博士の胸像があり、台座には「つとめてやむな」の語が記されてます。
この言葉は、学校長の求めに応じて博士が揮ごうしたもので、今では同校の校訓となってます。
博士の像は西を向き、校庭で遊ぶ子供たちを優しく見守ります。


本多博士の胸像が見つめる方向、小学校の西隣に妙源寺があり、そこに本多家の墓があります。1950年に博士の夫人が亡くなったとき、博士の発案で両親や兄弟の墓を新しくすると共に自身と夫人が入る墓を造りました。そして、それぞれがどんな人であったか分かるように短い言葉を書き記すよう提案し、自身の墓の裏面には「鉄鋼の世界的権威者」と刻みました。因みに、新堀町で農業を継いだ長兄の墓には、「明治用水開拓者」と記されました。
なお、妙源寺は鎌倉時代に建立の由緒ある古刹で、奥に見える柳堂は国の重要文化財です。

撮影日 平成25年10月10日、14日
撮影場所 欠町(カケマチ)、大和町(ダイワチョウ)
投稿者 岡崎エクスプローラー

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2013年08月05日

藤川西町「うんとり」


藤川西町堤ヶ入の旧東海道沿いに「うんとり」と呼ばれる地名がある。写真の手前、田の中を西に通る道があり、その向こうに名鉄本線が走る。名鉄線の向こうの松並木は旧東海道。山の手前の高い建物は「うんとり」(薬屋)の3階建ての立派な建物。この建物は、ネオンを付けて大変目立つものであったというが、昭和34年の伊勢湾台風の時に1・2階がつぶれてしまったという。この写真は、山﨑さんの所蔵写真の中にあったが、撮影は杉浦彰氏。もとの写真は、画像部分は4cm×5cmほどの大きさで、いわゆる「六六版」という。劣化が激しいが、とても貴重な写真であり、大切に保存したいものである。

写真撮影場所。航空写真は昭和22年。米軍が撮影。

撮影日 昭和30年頃
撮影場所 藤川駅西(現在の「道の駅」あたり)より藤川西町の「うんとり」方面(西南)を眺めたところ。
投稿者 土井政美

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2013年07月18日

古い写真が生き返る時・藤川関山神社を臨む




何枚かの写真の中にあった横5Cm×縦4Cmの小さな写真でした。どうも関山神社らしい。しかし、国道一号は通っていないし、参道がみえるが、風景が現在と全然違います。そこで、現地に行って同じ位置を想定して写真を撮ってみました。そうしたら、田の形が60年前と全く同じでした。位置の特定も行えました。もちろん、地元の方の案内があったればこそでした。三枚目は、写真を撮った場所(陣屋跡)です。

撮影日 昭和20年代、2013年5月
撮影場所 藤川陣屋跡
投稿者 古い写真(不明)所蔵 山﨑守  投稿 土井政美

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2013年06月03日

明治23年の地図と昭和22年の航空写真



地図と写真は、郷土を知る上で欠かせない。特に明治23年の地図は大変詳しく調査されている。また、終戦から間もない昭和22年の航空写真は貴重である。この2枚の地図と写真から藤川町と市場町の変化を跡付けることができる。地図は、国土地理院の地図から藤川町の部分を拡大した。また、昭和22年の航空写真は徳性寺が保存・展示している航空写真から部分を撮影させていただいた。矢印が徳性寺。

撮影日  1890年(明治23年)と1947年(昭和22年)
撮影場所 藤川と市場
投稿者  土井政美


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2013年05月31日

昭和20年 薙刀の訓練



「戦争も終わりの頃、藤川小学校の校庭で撮影された写真。女性たちが銃後の守りとして薙刀の訓練をしているところのようだ。後ろの特徴ある校舎から藤川小学校であることがわかる。掲揚塔には、「八・八五米」の字が。また、校舎の正面の字は「眷民皆働」のように見える。写真を集め、所有していたのは山﨑守さん。もう1枚は、弓の訓練をしているところ。後ろの松の木は、当時藤川小学校の校庭に植えられていたものだと考えられる。この頃は、生活の全てが戦争のためであったようだ。」

撮影日  1945年(昭和20年)
撮影場所 藤川小学校校庭
投稿者  土井政美


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2013年05月16日

奥まで続く『松並木』(藤川小学校フォト㉒)


松並木が奥までたくさん続いているように、奥の方が見えるところで写真にしました。

撮影日 :H25年2月25日
撮影場所:道の駅
投稿者 :中田 向日葵

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2013年04月29日

映像ギャラリー「藤川宿」

「広報 YouTube」では、市内の風景やイベント、役立ち情報など、動画で様々な情報をお伝えしています。
映像ギャラリー「岡崎市広報YouTube」「藤川宿」

東海道の37番目の宿場として栄えた、藤川宿。
平成8年3月、国土交通省が「歴史国道」に選定。今でも、当時の面影を感じることができます。それでは藤川宿を東から西へと順にご覧ください。
<紹介順>
東棒鼻-問屋場跡-米屋-藤川宿資料館(脇本陣跡)-西棒鼻-むらさき麦(藤川小学校前)-芭蕉句碑-松並木
・道の駅 藤川宿平成24年12月9日開駅)。  


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2013年04月28日

映像ギャラリー「大樹寺から岡崎城への眺望(ビスタライン)」

「広報 YouTube」では、市内の風景やイベント、役立ち情報など、動画で様々な情報をお伝えしています。
映像ギャラリー「岡崎市広報YouTube」「大樹寺から岡崎城への眺望(ビスタライン)」

「岡崎城」と岡崎城の北にある「大樹寺」を結ぶ約3kmの直線を「ビスタライン」と呼­んでいます。「ビスタ」とは「眺望・展望」を意味します。
この眺望は、徳川三代将軍家光が、1641年、家康の十七回忌を機に、徳川家・松平氏­の菩提寺である大樹寺の伽藍を建てるとき、「祖父生誕の地を望めるように」と、本堂か­ら三門、総門を通して、岡崎城が望めるようにしたことに由来します。以後、歴代の岡崎城主は、天守閣から毎日ここに向かって拝礼したとも伝えられています­。
時は移り、岡崎城も再建されましたが、大樹寺から岡崎城を望む歴史的眺望は往時のまま­(約370年前)で、門越しに望む岡崎城は、まるで額の中の絵のようです。「百聞は一­見に如かず」。ぜひ、大樹寺の門越しに望む歴史的眺望を体感ください。  


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2013年04月27日

映像ギャラリー「八丁蔵通り」

「広報 YouTube」では、市内の風景やイベント、役立ち情報など、動画で様々な情報をお伝えしています。
映像ギャラリー「岡崎市広報YouTube」「八丁蔵通り」

黒塗りの板張り壁面と漆喰塗の白い土壁の色彩の対比が特徴の「八丁蔵通り」。伝統的な地場産業が息づく町並みです。
岡崎城から八丁(約870m)離れていたことからその名がついた八丁村(現在の八帖町)は岡崎の名物、八丁味噌の生産地。昔と変わらず現在でも、2軒の蔵元が八丁味噌を造っており、見事な蔵屋敷が並ぶ狭い路地には昔の風情が残っています。かつて味噌仕込み用の蔵として使用され、現在は史料館となっている大蔵は、国の有形文化財に登録されています。
岡崎市の観光拠点でもあるこの地域は、連続テレビ小説「純情きらり」の舞台にもなりました。  


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2013年03月12日

世界に一つだけの松


ぼくの通っている小学校には、「旗かけの松」と言われる松があります。
この松は、松平軍が敵を追っぱらうために、松に自分の旗をかけ、 まるで味方がたくさんいるかのように見せかけたことから、「旗かけの松」とよばれています。ちなみに今は三代目だそうです。

撮影場所 大樹寺小学校
投稿者  グレゴリー

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2013年03月04日

見返りの大杉



天恩寺には家康公にまつわる逸話が残っています。
それが写真の大杉です。
長篠合戦に出陣する折、天恩寺に寄って戦勝祈願をした際のこと、大杉の陰から武田方の刺客が矢を射かけるところ、仏殿本尊延命地蔵の「家康。家康」という呼びかけで振り返り、危うく難を逃れることができたそうです。
地蔵菩薩に感謝するとともに、馬上から何度も何度も繰り返し杉の木を見返りつつ戦場へと向かっていったため、その後この大杉は「見返りの大杉」と称されています。

撮影日  平成25年2月
撮影場所 片寄町
投稿者  SUZUKI

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2013年03月01日

天恩寺


天恩寺は、建武 2年(1335)、矢作川の戦いに敗れた足利尊氏が、この額田の地に退き、延命地蔵に祈願したところ、見事に戦勝を得たため、その遺言により、室町幕府 3代将軍足利義満が、貞治元年(1362)に創建されたお寺です。
仏殿、山門は国の重要文化財にも指定されています。

額田町男川流域は、急傾斜地が多く、雲母片岩、石英石地帯で、その片岩を猪垣や石垣に活かした他では見られないすばらしいものが各所にあります。
なかでも天恩寺の石垣は丁寧に整然と積み上げられていていつ見ても本当に美しいです。

撮影日  平成25年2月
撮影場所 片寄町
投稿者  SUZUKI

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2013年02月24日

「大樹寺」ふるさと探訪その3ー大樹寺の三門


大樹寺は、文明7年(1475)松平家四代目の親忠により創建されました。創建時の建物は現存しておりませんが、寺内最古の建物は天文4年(1525)完成の多宝塔です。これは松平家七代目つまり家康公の祖父に当たる清康が建てたもので、国指定重要文化財です。それに次いで古いのが、家康公17回忌に三代将軍家光が建てた三門・総門・鐘楼など。本堂は安政の火災で焼けてしまった後、江戸時代末期の再建です。


大樹寺小学校正面前に聳え立つ三門。その楼上正面に掲げられた「大樹寺」の額は、後奈良天皇の勅額(天皇自筆の額)です。そしてその内部には、尾張徳川家初代義直が寄進した釈迦三尊像と十六羅漢像が祀られています。


寺院の門を山門と言います。これは寺院に山号があるからでしょう。大樹寺も成道山大樹寺と言います。また、山門のことを三門と書く場合があります。これは大きな中央の門と左右の脇門と3つを連ねて呼ぶからでしょう。また、仏教では三解脱門という意味から三門と呼ぶことがあります。人間には3つの根本的な煩悩があります。「むさぼり」「いかり」「おろか」という煩悩です。この3つの煩悩から逃れて、悟りに通ずる3つの門が三解脱門です。大樹寺の本山である京都知恩院の山門や東京芝の増上寺の山門も三解脱門の意味で三門と呼ばれており、楼上内部には釈迦牟尼仏や十六羅漢像が安置されています。


投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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2013年02月23日

「大樹寺」ふるさと探訪その2ー大樹将軍



大樹寺には、徳川歴代将軍の位牌が安置されており、将軍家の菩提寺ですが、「大樹」という寺号には「将軍」の意味が込められています。2千年前、中国後漢の馮異(フウイ)将軍は、光武帝に従って数々の戦功をたてました。功績抜群の名将であるにもかかわらず、この馮異将軍は、人となりが謙遜で功を誇らず、同僚の将軍たちが戦勝の自慢話を始めると、いつも席を立って大きな樹木のかげに隠れてしまい、自分の手柄話をしようとしませんでした。このような謙遜な態度から馮異将軍は、「大樹将軍」と呼ばれるようになりました。そして、中国では「大樹」が「将軍」の別名として使われるようになったのです。




松平四代目の親忠は、松平家の子孫から将軍の出現を念願して菩提寺に「大樹寺」と名をつけました。この寺号に込められた願いは、128年の時を経て慶長8年(1603)松平9代目の家康公が、征夷大将軍となることで見事、実現したのです。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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2013年02月22日

滝山寺鬼祭りまもなく!




滝山寺鬼祭り、明日です!

過去の様子はこちらこちら
滝山寺についてはこちら

撮影日  平成25年2月
撮影場所 滝町
投稿者  SUZUKI

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2013年02月19日

随念寺




1562年に家康公が創設した桜門と白土塀が美しい寺で、松平七代清康(家康の祖父)の妹、久子の墓があります。
久子は、家康が生母於大と生き別れして以来、家康を養育した人です。
東海道を見下ろす丘陵に建てられた一連の社寺の中でも、幕府の庇護が厚く、城の防衛拠点としての名残を今もよく残しています。

撮影日  平成25年2月
撮影場所 門前町
投稿者  SUZUKI

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2013年02月17日

「大樹寺」ふるさと探訪その1ー大樹寺の創建



大樹寺は、文明7年(1475)松平家四代目の親忠により勢誉愚底上人を開山として創建されました。大樹寺創建のいきさつは、井田野合戦で戦死した亡霊たちを鎮めるためと言われています。勢誉上人は、7日間の念仏で亡霊を弔い、その念仏堂が鴨田西光寺、松平家の菩提寺が大樹寺となりました。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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2013年02月16日

江戸時代末ころの大樹寺



現在の大樹寺小学校敷地には、たくさんの大樹寺塔頭がありました。本堂・三門・総門をつなぐビスタラインの両側に塔頭が並んでいたようすが分かります。総門前の鴨田8区は門前村と呼ばれていました。三門の左手にある開花院に明治6年(1873)にできた広元学校が大樹寺小学校の始まりです。本校は開校140年目を迎えました。


投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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2013年02月04日

三浦太鼓



六供町界隈は戦災を免れたということから道路形態や町割りが往時のまま残っており、初めていくと迷路を歩いているような感覚になります。


そんな細い路地を歩いていくと、現れるのがこの三浦太鼓。
慶応元年(1865年)創業で150年余り続くという老舗の太鼓店です。
伝統を今に継承し、さらなる発展へと。
三浦太鼓店

撮影日  平成25年2月
撮影場所 六供町
投稿者  SUZUKI

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