› 岡崎いいとこ風景ブログ › 歴史の風景

2013年05月16日

奥まで続く『松並木』(藤川小学校フォト㉒)


松並木が奥までたくさん続いているように、奥の方が見えるところで写真にしました。

撮影日 :H25年2月25日
撮影場所:道の駅
投稿者 :中田 向日葵

にっこりあなたのいいとこ写真、ぜひ、ご応募ください!応募はこちらカメラ

↓ランキングに参加してます★ワンクリックお願いします!

  


Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(0)歴史の風景

2013年04月29日

映像ギャラリー「藤川宿」

「広報 YouTube」では、市内の風景やイベント、役立ち情報など、動画で様々な情報をお伝えしています。
映像ギャラリー「岡崎市広報YouTube」「藤川宿」

東海道の37番目の宿場として栄えた、藤川宿。
平成8年3月、国土交通省が「歴史国道」に選定。今でも、当時の面影を感じることができます。それでは藤川宿を東から西へと順にご覧ください。
<紹介順>
東棒鼻-問屋場跡-米屋-藤川宿資料館(脇本陣跡)-西棒鼻-むらさき麦(藤川小学校前)-芭蕉句碑-松並木
・道の駅 藤川宿平成24年12月9日開駅)。  


Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(0)歴史の風景

2013年04月28日

映像ギャラリー「大樹寺から岡崎城への眺望(ビスタライン)」

「広報 YouTube」では、市内の風景やイベント、役立ち情報など、動画で様々な情報をお伝えしています。
映像ギャラリー「岡崎市広報YouTube」「大樹寺から岡崎城への眺望(ビスタライン)」

「岡崎城」と岡崎城の北にある「大樹寺」を結ぶ約3kmの直線を「ビスタライン」と呼­んでいます。「ビスタ」とは「眺望・展望」を意味します。
この眺望は、徳川三代将軍家光が、1641年、家康の十七回忌を機に、徳川家・松平氏­の菩提寺である大樹寺の伽藍を建てるとき、「祖父生誕の地を望めるように」と、本堂か­ら三門、総門を通して、岡崎城が望めるようにしたことに由来します。以後、歴代の岡崎城主は、天守閣から毎日ここに向かって拝礼したとも伝えられています­。
時は移り、岡崎城も再建されましたが、大樹寺から岡崎城を望む歴史的眺望は往時のまま­(約370年前)で、門越しに望む岡崎城は、まるで額の中の絵のようです。「百聞は一­見に如かず」。ぜひ、大樹寺の門越しに望む歴史的眺望を体感ください。  


Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(0)歴史の風景

2013年04月27日

映像ギャラリー「八丁蔵通り」

「広報 YouTube」では、市内の風景やイベント、役立ち情報など、動画で様々な情報をお伝えしています。
映像ギャラリー「岡崎市広報YouTube」「八丁蔵通り」

黒塗りの板張り壁面と漆喰塗の白い土壁の色彩の対比が特徴の「八丁蔵通り」。伝統的な地場産業が息づく町並みです。
岡崎城から八丁(約870m)離れていたことからその名がついた八丁村(現在の八帖町)は岡崎の名物、八丁味噌の生産地。昔と変わらず現在でも、2軒の蔵元が八丁味噌を造っており、見事な蔵屋敷が並ぶ狭い路地には昔の風情が残っています。かつて味噌仕込み用の蔵として使用され、現在は史料館となっている大蔵は、国の有形文化財に登録されています。
岡崎市の観光拠点でもあるこの地域は、連続テレビ小説「純情きらり」の舞台にもなりました。  


Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(0)歴史の風景

2013年03月12日

世界に一つだけの松


ぼくの通っている小学校には、「旗かけの松」と言われる松があります。
この松は、松平軍が敵を追っぱらうために、松に自分の旗をかけ、 まるで味方がたくさんいるかのように見せかけたことから、「旗かけの松」とよばれています。ちなみに今は三代目だそうです。

撮影場所 大樹寺小学校
投稿者  グレゴリー

にっこりあなたのいいとこ写真、ぜひ、ご応募ください!応募はこちらカメラ

↓ランキングに参加してます★ワンクリックお願いします!
  


Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(1)歴史の風景

2013年03月04日

見返りの大杉



天恩寺には家康公にまつわる逸話が残っています。
それが写真の大杉です。
長篠合戦に出陣する折、天恩寺に寄って戦勝祈願をした際のこと、大杉の陰から武田方の刺客が矢を射かけるところ、仏殿本尊延命地蔵の「家康。家康」という呼びかけで振り返り、危うく難を逃れることができたそうです。
地蔵菩薩に感謝するとともに、馬上から何度も何度も繰り返し杉の木を見返りつつ戦場へと向かっていったため、その後この大杉は「見返りの大杉」と称されています。

撮影日  平成25年2月
撮影場所 片寄町
投稿者  SUZUKI

にっこりあなたのいいとこ写真、ぜひ、ご応募ください!応募はこちらカメラ

↓ランキングに参加してます★ワンクリックお願いします!

  


Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(0)歴史の風景

2013年03月01日

天恩寺


天恩寺は、建武 2年(1335)、矢作川の戦いに敗れた足利尊氏が、この額田の地に退き、延命地蔵に祈願したところ、見事に戦勝を得たため、その遺言により、室町幕府 3代将軍足利義満が、貞治元年(1362)に創建されたお寺です。
仏殿、山門は国の重要文化財にも指定されています。

額田町男川流域は、急傾斜地が多く、雲母片岩、石英石地帯で、その片岩を猪垣や石垣に活かした他では見られないすばらしいものが各所にあります。
なかでも天恩寺の石垣は丁寧に整然と積み上げられていていつ見ても本当に美しいです。

撮影日  平成25年2月
撮影場所 片寄町
投稿者  SUZUKI

にっこりあなたのいいとこ写真、ぜひ、ご応募ください!応募はこちらカメラ

↓ランキングに参加してます★ワンクリックお願いします!

  


Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(0)歴史の風景

2013年02月24日

「大樹寺」ふるさと探訪その3ー大樹寺の三門


大樹寺は、文明7年(1475)松平家四代目の親忠により創建されました。創建時の建物は現存しておりませんが、寺内最古の建物は天文4年(1525)完成の多宝塔です。これは松平家七代目つまり家康公の祖父に当たる清康が建てたもので、国指定重要文化財です。それに次いで古いのが、家康公17回忌に三代将軍家光が建てた三門・総門・鐘楼など。本堂は安政の火災で焼けてしまった後、江戸時代末期の再建です。


大樹寺小学校正面前に聳え立つ三門。その楼上正面に掲げられた「大樹寺」の額は、後奈良天皇の勅額(天皇自筆の額)です。そしてその内部には、尾張徳川家初代義直が寄進した釈迦三尊像と十六羅漢像が祀られています。


寺院の門を山門と言います。これは寺院に山号があるからでしょう。大樹寺も成道山大樹寺と言います。また、山門のことを三門と書く場合があります。これは大きな中央の門と左右の脇門と3つを連ねて呼ぶからでしょう。また、仏教では三解脱門という意味から三門と呼ぶことがあります。人間には3つの根本的な煩悩があります。「むさぼり」「いかり」「おろか」という煩悩です。この3つの煩悩から逃れて、悟りに通ずる3つの門が三解脱門です。大樹寺の本山である京都知恩院の山門や東京芝の増上寺の山門も三解脱門の意味で三門と呼ばれており、楼上内部には釈迦牟尼仏や十六羅漢像が安置されています。


投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

にっこりあなたのいいとこ写真、ぜひ、ご応募ください!応募はこちらカメラ

↓ランキングに参加してます★ワンクリックお願いします!

  


Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(1)歴史の風景

2013年02月23日

「大樹寺」ふるさと探訪その2ー大樹将軍



大樹寺には、徳川歴代将軍の位牌が安置されており、将軍家の菩提寺ですが、「大樹」という寺号には「将軍」の意味が込められています。2千年前、中国後漢の馮異(フウイ)将軍は、光武帝に従って数々の戦功をたてました。功績抜群の名将であるにもかかわらず、この馮異将軍は、人となりが謙遜で功を誇らず、同僚の将軍たちが戦勝の自慢話を始めると、いつも席を立って大きな樹木のかげに隠れてしまい、自分の手柄話をしようとしませんでした。このような謙遜な態度から馮異将軍は、「大樹将軍」と呼ばれるようになりました。そして、中国では「大樹」が「将軍」の別名として使われるようになったのです。




松平四代目の親忠は、松平家の子孫から将軍の出現を念願して菩提寺に「大樹寺」と名をつけました。この寺号に込められた願いは、128年の時を経て慶長8年(1603)松平9代目の家康公が、征夷大将軍となることで見事、実現したのです。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

にっこりあなたのいいとこ写真、ぜひ、ご応募ください!応募はこちらカメラ

↓ランキングに参加してます★ワンクリックお願いします!

  


Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(0)歴史の風景

2013年02月22日

滝山寺鬼祭りまもなく!




滝山寺鬼祭り、明日です!

過去の様子はこちらこちら
滝山寺についてはこちら

撮影日  平成25年2月
撮影場所 滝町
投稿者  SUZUKI

にっこりあなたのいいとこ写真、ぜひ、ご応募ください!応募はこちらカメラ

↓ランキングに参加してます★ワンクリックお願いします!

  


Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 12:00Comments(2)歴史の風景

2013年02月19日

随念寺




1562年に家康公が創設した桜門と白土塀が美しい寺で、松平七代清康(家康の祖父)の妹、久子の墓があります。
久子は、家康が生母於大と生き別れして以来、家康を養育した人です。
東海道を見下ろす丘陵に建てられた一連の社寺の中でも、幕府の庇護が厚く、城の防衛拠点としての名残を今もよく残しています。

撮影日  平成25年2月
撮影場所 門前町
投稿者  SUZUKI

にっこりあなたのいいとこ写真、ぜひ、ご応募ください!応募はこちらカメラ

↓ランキングに参加してます★ワンクリックお願いします!

  


Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(0)歴史の風景

2013年02月17日

「大樹寺」ふるさと探訪その1ー大樹寺の創建



大樹寺は、文明7年(1475)松平家四代目の親忠により勢誉愚底上人を開山として創建されました。大樹寺創建のいきさつは、井田野合戦で戦死した亡霊たちを鎮めるためと言われています。勢誉上人は、7日間の念仏で亡霊を弔い、その念仏堂が鴨田西光寺、松平家の菩提寺が大樹寺となりました。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

にっこりあなたのいいとこ写真、ぜひ、ご応募ください!応募はこちらカメラ

↓ランキングに参加してます★ワンクリックお願いします!

  


Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(0)歴史の風景

2013年02月16日

江戸時代末ころの大樹寺



現在の大樹寺小学校敷地には、たくさんの大樹寺塔頭がありました。本堂・三門・総門をつなぐビスタラインの両側に塔頭が並んでいたようすが分かります。総門前の鴨田8区は門前村と呼ばれていました。三門の左手にある開花院に明治6年(1873)にできた広元学校が大樹寺小学校の始まりです。本校は開校140年目を迎えました。


投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

にっこりあなたのいいとこ写真、ぜひ、ご応募ください!応募はこちらカメラ

↓ランキングに参加してます★ワンクリックお願いします!

  


Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(0)歴史の風景

2013年02月04日

三浦太鼓



六供町界隈は戦災を免れたということから道路形態や町割りが往時のまま残っており、初めていくと迷路を歩いているような感覚になります。


そんな細い路地を歩いていくと、現れるのがこの三浦太鼓。
慶応元年(1865年)創業で150年余り続くという老舗の太鼓店です。
伝統を今に継承し、さらなる発展へと。
三浦太鼓店

撮影日  平成25年2月
撮影場所 六供町
投稿者  SUZUKI

にっこりあなたのいいとこ写真、ぜひ、ご応募ください!応募はこちらカメラ

↓ランキングに参加してます★ワンクリックお願いします!


  


Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(0)歴史の風景

2013年02月03日

徳川将軍家の菩提寺①ー増上寺と寛永寺

家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)


三河における徳川将軍家の菩提寺が大樹寺であることは、大樹寺小学校の職員・児童ならよく知っています。では、江戸での菩提寺と言えば、芝の増上寺と上野の寛永寺です。

江戸幕府の将軍は家康を初代として15人います。その15人のうち最後の将軍慶喜は、江戸幕府滅亡後の大正2年に77歳で亡くなっていますので、将軍として葬られていません。ですから将軍として葬られたのは14人ということになります。この14人の位牌が大樹寺にあります。では、お墓はどこにあるか。初代家康と三代家光のお墓(霊廟)は、日光東照宮にあります。残り12人のお墓(霊廟)が、芝の増上寺と上野の寛永寺であり、それぞれ6人ずつ葬られているのです。

芝の増上寺は東京タワーのすぐ近くにあります。大樹寺と同じ浄土宗です。徳川家は家康学習で学んだように、松平のころから浄土宗です。ですから江戸でも浄土宗の増上寺を菩提寺としたのでしょう。この増上寺には、2代秀忠公・6代家宣公・7代家継公・9代家重公・12代家慶公・14代家茂公の6人の将軍が埋葬されています。ドラマで話題となった秀忠公夫人お江や家茂公夫人である皇女和宮もここに眠っています。この徳川将軍家の霊廟は、御霊屋(おたまや)と呼ばれ、国宝に指定されていたのですが、昭和20年の東京大空襲で焼失してしまいました。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

にっこりあなたのいいとこ写真、ぜひ、ご応募ください!応募はこちらカメラ

↓ランキングに参加してます★ワンクリックお願いします!


  


Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(0)歴史の風景

2013年02月02日

徳川家康エピソード編ー家康、家臣を憐れむ

家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)


家康が岡崎に帰国した頃です。一日鷹狩りをしていると、折りしも早苗をとる頃で、御家人の近藤が農民に混ざって早苗を本田に挿しているのに出くわしました。近藤は家康が現れるのを見ると、わざと泥で顔を汚して家康に見つからないようにしたのですが、早速見つかってしまいました。家康が「あれは近藤ではないか、ここへ呼べ」と言ったので、近藤もやむを得ず顔を洗い、田の畔に立てかけておいた刀を差し、帷子の破れたものを身につけて縄をたすきにかけ、恐る恐る家康の前に出ました。その様は目も当てられない程でありました。家康は「我が所領が乏しいので、お前たちを思うように養い育てることができない。おまえたちは少しの給料で武備を見苦しくないよう整えることも難しいので、このように耕作しなければならない。さぞ不便なことであろう。何時も時勢に従うのが世の常であるから、今は身分の高い低いも関係なく、わびしく卑しいことであっても勤めて生きていくことこそが肝要である。『憂患に生まれて安楽に死す』という古い言葉もあるように、末永くこの気持ちを忘れるでない、少しも恥じることはない」と言って涙ぐんだので、近藤はもちろんのこと、供奉の者たちもみな涙を流し、家康の心の尊さに感動しました。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

にっこりあなたのいいとこ写真、ぜひ、ご応募ください!応募はこちらカメラ

↓ランキングに参加してます★ワンクリックお願いします!


  


Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(0)歴史の風景

2013年01月27日

徳川家康エピソード編ー鳥居忠吉、密かに米銭を貯える

家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)


家康が人質として駿河にいた頃、今川氏は御家人の阿部・石川の2人に岡崎を守らせ、鳥居・松平の2人に岡崎領の管理を執り行わせていました。岡崎領からの年貢は今川氏が無理やり奪ってしまうので、鳥居忠吉はひとり苦労して長年にわたり米や銭などをたくさん貯蓄し、今後の軍事のために備えていました。

家康が先祖墓参のために岡崎へ一時帰国することが決まると、家康の帰城を待ち構えていた鳥居忠吉は喜びをおさえきれずに家康の手を引き蔵へ連れて行き申し上げました。「私が長年今川の人々に内緒でこのようなことをしましたのは、君がすぐにでもご帰国なされてご出馬される時、御家人を育み、軍用にも事欠かないようにするため、このように備えていました。私は、80歳という残り少ない余命ながら、朝夕に神仏へ祈ったかいがあって、今このように生前に再び君の尊厳を拝し申し上げることは、生涯これ以上の大きな幸せはございません」と、老眼に涙を浮かべて申し上げました。家康も忠吉の長年の忠義心と資材まで用意していたことに感動し、色々と厚く忠吉を労いました。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

にっこりあなたのいいとこ写真、ぜひ、ご応募ください!応募はこちらカメラ

↓ランキングに参加してます★ワンクリックお願いします!


  


Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(0)歴史の風景

2013年01月26日

井ノ口砦の戦い

家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)



井ノ口砦とは、井ノ口町字楼にあった中世の砦で、現在の井ノ口稲荷社のところにありました。今も井ノ口稲荷の神社境内へ行くと、北に張り出す台地の先端になっており、砦を築くにはよい立地条件であることがよく分かります。中世、矢作川を渡るには「上の瀬」「中の瀬」「下の瀬」という3カ所の渡河地点がありました。北野と大門を結ぶのが「上の瀬」、矢作と八帖を結ぶのが「中の瀬」、渡と六名を結ぶのが「下の瀬」と呼ばれており、交通の要所でした。当時の矢作川は現在のように堤防がなく、流路も一本化されず雨が降るたびに網の目状に乱流していました。そのような矢作川を渡るのに比較的に安定していたのがこの3カ所の渡河地点で、北野には古代寺院跡として北野廃寺の遺跡があります。この大門の「上の瀬」から東方約2キロの地点に井ノ口砦がありましたので東西交通を押さえる要地にあったということです。

寛正6年(1465)5月、額田郡で幕府や守護に反抗する蜂起事件が起こりました。蜂起したのは、丸山・大場・梁田といった牢人で、足利氏あるいは高氏に仕え額田郡南部の領地を所有した者たちですが、戦国動乱の中で一揆を起こし、井ノ口に砦を構えて立て籠りました。「上の瀬」と呼ばれた北野ー大門の渡河地点で矢作川を渡った街道は、本校学区を通過して行きます。京から鎌倉へ、または鎌倉から京へと多くの荷物が運ばれたことでしょう。その中には朝廷や室町幕府からの大切な荷物もありました。京と関東を結ぶ大切な交通路を遮断し、京都運送の荷物を押さえる絶好の場所に井ノ口砦があったのです。

井ノ口砦に立て籠もる牢人一揆に対する鎮圧が開始されました。その責任者は三河守護細川成之。室町幕府管領畠山政長からは、三河国内の諸勢力に対して守護への協力と一揆への加担禁止が命令され、一揆掃討作戦が進められました。鎮圧軍数百人が押し寄せて、三日三晩にわたって攻撃、ついに井ノ口砦は陥落し一揆勢は解体・逃亡しました。この時、室町幕府政所執事伊勢氏の被官であった松平信光が一揆討伐に協力し三河での勢力を強めました。一揆を起こした牢人たちの領地であった額田郡南部へと松平氏の領地が広がっていくことになるのです。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

にっこりあなたのいいとこ写真、ぜひ、ご応募ください!応募はこちらカメラ

↓ランキングに参加してます★ワンクリックお願いします!


  


Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(0)歴史の風景

2013年01月25日

堤防からの眺望(天白町側)


東海道本線が矢作川鉄橋を通過後、上和田町を中心に、竜美ヶ丘、明大寺~羽根そして幸田の山並みが広がります。撮影当時は発展途上のため、建物は少なめでした。

撮影日  平成4年6月
撮影場所 東海道本線西岡崎~岡崎
投稿者  榊原秀明

にっこりあなたのいいとこ写真、ぜひ、ご応募ください!応募はこちらカメラ

↓ランキングに参加してます★ワンクリックお願いします!




■まちづくり法人表彰募集中(詳細はこちら
  


Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(0)歴史の風景

2013年01月20日

岡崎藩六万石の改革

家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)



現在の日本政府も、行政改革や財政改革が必要とされていますが、江戸時代の岡崎藩も行財政改革が必要でした。岡崎藩の行財政改革に挑戦し挫折した若き岡崎藩主が水野忠辰(ただとき)です。

水野忠辰は14歳(16歳説もある)で三河岡崎六万石の藩主となりました。この水野家は、徳川家康の母親於大の実家ですから、徳川譜代大名の名門です。水野家が三河吉田藩から三河岡崎藩へ国替えとなったのは、1645年、大坂城が落城し徳川幕府が安泰となって30年後のことです。これ以後、水野家は7代にわたり118年間、岡崎藩を統治しました。その中で最も有名な藩主が4代目の水野忠之です。忠之は8代将軍徳川吉宗によって江戸幕府老中に抜擢され、享保の改革に着手して江戸幕府の行財政改革を断行しました。この功績に対して、将軍吉宗は水野家に一万石を加増し岡崎藩は五万石から六万石になったのです。また水野忠之は忠臣蔵で有名な赤穂浪士のうち神崎与五郎ら9名の浪士を預かり、切腹まで手厚く接待をしました。

この水野忠之の孫が6代目藩主水野忠辰です。14歳(16歳)で藩主となった忠辰は、幼児より学問を好み、儒教の政治思想を目標に自ら政務を執る覚悟で岡崎藩の行財政改革に乗り出しました。江戸幕府で享保の改革の中心となって活躍した偉大な祖父忠之への思いも強かったと思います。保守的な老臣を藩政から退け、若手の人材登用をはかります。また下級武士からの人材抜擢も行い藩政刷新を行おうとしました。しかし藩政に新風を吹き込もうとする忠辰のやり方は、強大な老臣連合との間に衝突を起こします。忠辰は国家老や江戸詰年寄に強制隠居を命じ、抵抗勢力を抑え込もうとするのですが、これに対し岡崎在住の家老・年寄全員が城内出仕を拒否、つまり重臣たちがストライキを起こして藩主忠辰に反抗したのです。これにより藩の政務が滞り岡崎藩内の空気が緊迫しました。これが「岡崎騒動」と呼ばれる事件です。忠辰は側近を派遣して重臣たちに協力を求めますが、重臣たちは譲歩しません。江戸詰年寄も重臣側についてしまいます。結局、忠辰は重臣たちに屈服し、藩政改革は挫折に終わりました。忠辰から処分を受けた重臣たちはもとに復帰し、新たに登用した忠辰側近は追放されてしまいました。

以後、この若き藩主は人が変わりました。深い挫折感からでしょうか、毎夜吉原に通い続け、湯水のように金を使い、放埒な生活に明け暮れます。生母順性院は、忠辰に反省を促すために自殺。ついに忠辰は重臣たちから狂気を理由に座敷牢へ閉じ込められてしまいます。翌年には29歳(31歳)の若さで亡くなりました。

忠辰の改革は徹底した倹約と緊縮財政により、窮乏藩士を救済し、領内百姓の年貢も減免しました。最終的には失敗しましたが、一般藩士や領民から慕われた藩主です。そして、この水野忠辰の子孫から江戸幕府天保の改革の旗手水野忠邦が登場します。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

にっこりあなたのいいとこ写真、ぜひ、ご応募ください!応募はこちらカメラ

↓ランキングに参加してます★ワンクリックお願いします!



■まちづくり法人表彰募集中(詳細はこちら
  


Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(0)歴史の風景