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2013年03月01日

天恩寺


天恩寺は、建武 2年(1335)、矢作川の戦いに敗れた足利尊氏が、この額田の地に退き、延命地蔵に祈願したところ、見事に戦勝を得たため、その遺言により、室町幕府 3代将軍足利義満が、貞治元年(1362)に創建されたお寺です。
仏殿、山門は国の重要文化財にも指定されています。

額田町男川流域は、急傾斜地が多く、雲母片岩、石英石地帯で、その片岩を猪垣や石垣に活かした他では見られないすばらしいものが各所にあります。
なかでも天恩寺の石垣は丁寧に整然と積み上げられていていつ見ても本当に美しいです。

撮影日  平成25年2月
撮影場所 片寄町
投稿者  SUZUKI

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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(0)歴史の風景

2013年02月24日

「大樹寺」ふるさと探訪その3ー大樹寺の三門


大樹寺は、文明7年(1475)松平家四代目の親忠により創建されました。創建時の建物は現存しておりませんが、寺内最古の建物は天文4年(1525)完成の多宝塔です。これは松平家七代目つまり家康公の祖父に当たる清康が建てたもので、国指定重要文化財です。それに次いで古いのが、家康公17回忌に三代将軍家光が建てた三門・総門・鐘楼など。本堂は安政の火災で焼けてしまった後、江戸時代末期の再建です。


大樹寺小学校正面前に聳え立つ三門。その楼上正面に掲げられた「大樹寺」の額は、後奈良天皇の勅額(天皇自筆の額)です。そしてその内部には、尾張徳川家初代義直が寄進した釈迦三尊像と十六羅漢像が祀られています。


寺院の門を山門と言います。これは寺院に山号があるからでしょう。大樹寺も成道山大樹寺と言います。また、山門のことを三門と書く場合があります。これは大きな中央の門と左右の脇門と3つを連ねて呼ぶからでしょう。また、仏教では三解脱門という意味から三門と呼ぶことがあります。人間には3つの根本的な煩悩があります。「むさぼり」「いかり」「おろか」という煩悩です。この3つの煩悩から逃れて、悟りに通ずる3つの門が三解脱門です。大樹寺の本山である京都知恩院の山門や東京芝の増上寺の山門も三解脱門の意味で三門と呼ばれており、楼上内部には釈迦牟尼仏や十六羅漢像が安置されています。


投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(1)歴史の風景

2013年02月23日

「大樹寺」ふるさと探訪その2ー大樹将軍



大樹寺には、徳川歴代将軍の位牌が安置されており、将軍家の菩提寺ですが、「大樹」という寺号には「将軍」の意味が込められています。2千年前、中国後漢の馮異(フウイ)将軍は、光武帝に従って数々の戦功をたてました。功績抜群の名将であるにもかかわらず、この馮異将軍は、人となりが謙遜で功を誇らず、同僚の将軍たちが戦勝の自慢話を始めると、いつも席を立って大きな樹木のかげに隠れてしまい、自分の手柄話をしようとしませんでした。このような謙遜な態度から馮異将軍は、「大樹将軍」と呼ばれるようになりました。そして、中国では「大樹」が「将軍」の別名として使われるようになったのです。




松平四代目の親忠は、松平家の子孫から将軍の出現を念願して菩提寺に「大樹寺」と名をつけました。この寺号に込められた願いは、128年の時を経て慶長8年(1603)松平9代目の家康公が、征夷大将軍となることで見事、実現したのです。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(0)歴史の風景

2013年02月22日

滝山寺鬼祭りまもなく!




滝山寺鬼祭り、明日です!

過去の様子はこちらこちら
滝山寺についてはこちら

撮影日  平成25年2月
撮影場所 滝町
投稿者  SUZUKI

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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 12:00Comments(2)歴史の風景

2013年02月19日

随念寺




1562年に家康公が創設した桜門と白土塀が美しい寺で、松平七代清康(家康の祖父)の妹、久子の墓があります。
久子は、家康が生母於大と生き別れして以来、家康を養育した人です。
東海道を見下ろす丘陵に建てられた一連の社寺の中でも、幕府の庇護が厚く、城の防衛拠点としての名残を今もよく残しています。

撮影日  平成25年2月
撮影場所 門前町
投稿者  SUZUKI

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2013年02月17日

「大樹寺」ふるさと探訪その1ー大樹寺の創建



大樹寺は、文明7年(1475)松平家四代目の親忠により勢誉愚底上人を開山として創建されました。大樹寺創建のいきさつは、井田野合戦で戦死した亡霊たちを鎮めるためと言われています。勢誉上人は、7日間の念仏で亡霊を弔い、その念仏堂が鴨田西光寺、松平家の菩提寺が大樹寺となりました。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(0)歴史の風景

2013年02月16日

江戸時代末ころの大樹寺



現在の大樹寺小学校敷地には、たくさんの大樹寺塔頭がありました。本堂・三門・総門をつなぐビスタラインの両側に塔頭が並んでいたようすが分かります。総門前の鴨田8区は門前村と呼ばれていました。三門の左手にある開花院に明治6年(1873)にできた広元学校が大樹寺小学校の始まりです。本校は開校140年目を迎えました。


投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(0)歴史の風景

2013年02月04日

三浦太鼓



六供町界隈は戦災を免れたということから道路形態や町割りが往時のまま残っており、初めていくと迷路を歩いているような感覚になります。


そんな細い路地を歩いていくと、現れるのがこの三浦太鼓。
慶応元年(1865年)創業で150年余り続くという老舗の太鼓店です。
伝統を今に継承し、さらなる発展へと。
三浦太鼓店

撮影日  平成25年2月
撮影場所 六供町
投稿者  SUZUKI

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2013年02月03日

徳川将軍家の菩提寺①ー増上寺と寛永寺

家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)


三河における徳川将軍家の菩提寺が大樹寺であることは、大樹寺小学校の職員・児童ならよく知っています。では、江戸での菩提寺と言えば、芝の増上寺と上野の寛永寺です。

江戸幕府の将軍は家康を初代として15人います。その15人のうち最後の将軍慶喜は、江戸幕府滅亡後の大正2年に77歳で亡くなっていますので、将軍として葬られていません。ですから将軍として葬られたのは14人ということになります。この14人の位牌が大樹寺にあります。では、お墓はどこにあるか。初代家康と三代家光のお墓(霊廟)は、日光東照宮にあります。残り12人のお墓(霊廟)が、芝の増上寺と上野の寛永寺であり、それぞれ6人ずつ葬られているのです。

芝の増上寺は東京タワーのすぐ近くにあります。大樹寺と同じ浄土宗です。徳川家は家康学習で学んだように、松平のころから浄土宗です。ですから江戸でも浄土宗の増上寺を菩提寺としたのでしょう。この増上寺には、2代秀忠公・6代家宣公・7代家継公・9代家重公・12代家慶公・14代家茂公の6人の将軍が埋葬されています。ドラマで話題となった秀忠公夫人お江や家茂公夫人である皇女和宮もここに眠っています。この徳川将軍家の霊廟は、御霊屋(おたまや)と呼ばれ、国宝に指定されていたのですが、昭和20年の東京大空襲で焼失してしまいました。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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2013年02月02日

徳川家康エピソード編ー家康、家臣を憐れむ

家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)


家康が岡崎に帰国した頃です。一日鷹狩りをしていると、折りしも早苗をとる頃で、御家人の近藤が農民に混ざって早苗を本田に挿しているのに出くわしました。近藤は家康が現れるのを見ると、わざと泥で顔を汚して家康に見つからないようにしたのですが、早速見つかってしまいました。家康が「あれは近藤ではないか、ここへ呼べ」と言ったので、近藤もやむを得ず顔を洗い、田の畔に立てかけておいた刀を差し、帷子の破れたものを身につけて縄をたすきにかけ、恐る恐る家康の前に出ました。その様は目も当てられない程でありました。家康は「我が所領が乏しいので、お前たちを思うように養い育てることができない。おまえたちは少しの給料で武備を見苦しくないよう整えることも難しいので、このように耕作しなければならない。さぞ不便なことであろう。何時も時勢に従うのが世の常であるから、今は身分の高い低いも関係なく、わびしく卑しいことであっても勤めて生きていくことこそが肝要である。『憂患に生まれて安楽に死す』という古い言葉もあるように、末永くこの気持ちを忘れるでない、少しも恥じることはない」と言って涙ぐんだので、近藤はもちろんのこと、供奉の者たちもみな涙を流し、家康の心の尊さに感動しました。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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2013年01月27日

徳川家康エピソード編ー鳥居忠吉、密かに米銭を貯える

家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)


家康が人質として駿河にいた頃、今川氏は御家人の阿部・石川の2人に岡崎を守らせ、鳥居・松平の2人に岡崎領の管理を執り行わせていました。岡崎領からの年貢は今川氏が無理やり奪ってしまうので、鳥居忠吉はひとり苦労して長年にわたり米や銭などをたくさん貯蓄し、今後の軍事のために備えていました。

家康が先祖墓参のために岡崎へ一時帰国することが決まると、家康の帰城を待ち構えていた鳥居忠吉は喜びをおさえきれずに家康の手を引き蔵へ連れて行き申し上げました。「私が長年今川の人々に内緒でこのようなことをしましたのは、君がすぐにでもご帰国なされてご出馬される時、御家人を育み、軍用にも事欠かないようにするため、このように備えていました。私は、80歳という残り少ない余命ながら、朝夕に神仏へ祈ったかいがあって、今このように生前に再び君の尊厳を拝し申し上げることは、生涯これ以上の大きな幸せはございません」と、老眼に涙を浮かべて申し上げました。家康も忠吉の長年の忠義心と資材まで用意していたことに感動し、色々と厚く忠吉を労いました。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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2013年01月26日

井ノ口砦の戦い

家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)



井ノ口砦とは、井ノ口町字楼にあった中世の砦で、現在の井ノ口稲荷社のところにありました。今も井ノ口稲荷の神社境内へ行くと、北に張り出す台地の先端になっており、砦を築くにはよい立地条件であることがよく分かります。中世、矢作川を渡るには「上の瀬」「中の瀬」「下の瀬」という3カ所の渡河地点がありました。北野と大門を結ぶのが「上の瀬」、矢作と八帖を結ぶのが「中の瀬」、渡と六名を結ぶのが「下の瀬」と呼ばれており、交通の要所でした。当時の矢作川は現在のように堤防がなく、流路も一本化されず雨が降るたびに網の目状に乱流していました。そのような矢作川を渡るのに比較的に安定していたのがこの3カ所の渡河地点で、北野には古代寺院跡として北野廃寺の遺跡があります。この大門の「上の瀬」から東方約2キロの地点に井ノ口砦がありましたので東西交通を押さえる要地にあったということです。

寛正6年(1465)5月、額田郡で幕府や守護に反抗する蜂起事件が起こりました。蜂起したのは、丸山・大場・梁田といった牢人で、足利氏あるいは高氏に仕え額田郡南部の領地を所有した者たちですが、戦国動乱の中で一揆を起こし、井ノ口に砦を構えて立て籠りました。「上の瀬」と呼ばれた北野ー大門の渡河地点で矢作川を渡った街道は、本校学区を通過して行きます。京から鎌倉へ、または鎌倉から京へと多くの荷物が運ばれたことでしょう。その中には朝廷や室町幕府からの大切な荷物もありました。京と関東を結ぶ大切な交通路を遮断し、京都運送の荷物を押さえる絶好の場所に井ノ口砦があったのです。

井ノ口砦に立て籠もる牢人一揆に対する鎮圧が開始されました。その責任者は三河守護細川成之。室町幕府管領畠山政長からは、三河国内の諸勢力に対して守護への協力と一揆への加担禁止が命令され、一揆掃討作戦が進められました。鎮圧軍数百人が押し寄せて、三日三晩にわたって攻撃、ついに井ノ口砦は陥落し一揆勢は解体・逃亡しました。この時、室町幕府政所執事伊勢氏の被官であった松平信光が一揆討伐に協力し三河での勢力を強めました。一揆を起こした牢人たちの領地であった額田郡南部へと松平氏の領地が広がっていくことになるのです。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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2013年01月25日

堤防からの眺望(天白町側)


東海道本線が矢作川鉄橋を通過後、上和田町を中心に、竜美ヶ丘、明大寺~羽根そして幸田の山並みが広がります。撮影当時は発展途上のため、建物は少なめでした。

撮影日  平成4年6月
撮影場所 東海道本線西岡崎~岡崎
投稿者  榊原秀明

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2013年01月20日

岡崎藩六万石の改革

家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)



現在の日本政府も、行政改革や財政改革が必要とされていますが、江戸時代の岡崎藩も行財政改革が必要でした。岡崎藩の行財政改革に挑戦し挫折した若き岡崎藩主が水野忠辰(ただとき)です。

水野忠辰は14歳(16歳説もある)で三河岡崎六万石の藩主となりました。この水野家は、徳川家康の母親於大の実家ですから、徳川譜代大名の名門です。水野家が三河吉田藩から三河岡崎藩へ国替えとなったのは、1645年、大坂城が落城し徳川幕府が安泰となって30年後のことです。これ以後、水野家は7代にわたり118年間、岡崎藩を統治しました。その中で最も有名な藩主が4代目の水野忠之です。忠之は8代将軍徳川吉宗によって江戸幕府老中に抜擢され、享保の改革に着手して江戸幕府の行財政改革を断行しました。この功績に対して、将軍吉宗は水野家に一万石を加増し岡崎藩は五万石から六万石になったのです。また水野忠之は忠臣蔵で有名な赤穂浪士のうち神崎与五郎ら9名の浪士を預かり、切腹まで手厚く接待をしました。

この水野忠之の孫が6代目藩主水野忠辰です。14歳(16歳)で藩主となった忠辰は、幼児より学問を好み、儒教の政治思想を目標に自ら政務を執る覚悟で岡崎藩の行財政改革に乗り出しました。江戸幕府で享保の改革の中心となって活躍した偉大な祖父忠之への思いも強かったと思います。保守的な老臣を藩政から退け、若手の人材登用をはかります。また下級武士からの人材抜擢も行い藩政刷新を行おうとしました。しかし藩政に新風を吹き込もうとする忠辰のやり方は、強大な老臣連合との間に衝突を起こします。忠辰は国家老や江戸詰年寄に強制隠居を命じ、抵抗勢力を抑え込もうとするのですが、これに対し岡崎在住の家老・年寄全員が城内出仕を拒否、つまり重臣たちがストライキを起こして藩主忠辰に反抗したのです。これにより藩の政務が滞り岡崎藩内の空気が緊迫しました。これが「岡崎騒動」と呼ばれる事件です。忠辰は側近を派遣して重臣たちに協力を求めますが、重臣たちは譲歩しません。江戸詰年寄も重臣側についてしまいます。結局、忠辰は重臣たちに屈服し、藩政改革は挫折に終わりました。忠辰から処分を受けた重臣たちはもとに復帰し、新たに登用した忠辰側近は追放されてしまいました。

以後、この若き藩主は人が変わりました。深い挫折感からでしょうか、毎夜吉原に通い続け、湯水のように金を使い、放埒な生活に明け暮れます。生母順性院は、忠辰に反省を促すために自殺。ついに忠辰は重臣たちから狂気を理由に座敷牢へ閉じ込められてしまいます。翌年には29歳(31歳)の若さで亡くなりました。

忠辰の改革は徹底した倹約と緊縮財政により、窮乏藩士を救済し、領内百姓の年貢も減免しました。最終的には失敗しましたが、一般藩士や領民から慕われた藩主です。そして、この水野忠辰の子孫から江戸幕府天保の改革の旗手水野忠邦が登場します。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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2013年01月19日

大樹寺と徳川将軍

家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)




徳川将軍家の菩提寺である大樹寺の大方丈には、「将軍お成りの間」や「大名控えの間」があり、その襖には冷泉為恭による立派な障壁画が描かれています。

さて、大樹寺にある「将軍お成りの間」に入った江戸幕府の将軍はだれでしょうか。江戸幕府将軍15人のうち、大樹寺に参詣した将軍は一人だけです。14代将軍徳川家茂です。初代将軍徳川家康も大樹寺に参詣していますが、それは将軍になる前であったり、将軍を退いた後であったりしますから、現職の将軍が大樹寺に来て「将軍お成りの間」に入ったのは、14代将軍徳川家茂ただ一人ということになります。

関ヶ原の合戦で天下を掌握した家康は、全国に検地を施行します。この時、大樹寺領も確定され、鴨田町の一部と門前村で616石余の朱印状を家康からもらいます。(門前村というのは総門の南から鴨田南町そして大門学区にある大樹寺町にかけての村です)この大樹寺領に住む百姓によって収穫されるお米が616石余あり、そこから年貢が大樹寺に納められます。領主としての大樹寺は百姓から五公五民なら半分の約308石、六公四民なら約370石を受け取ることになります。その後も、大樹寺は将軍家菩提寺として、代々の将軍から朱印状を受けます。さて、家康の大樹寺参詣ですが、将軍引退後の慶長17年(1612)の1月です。前年、家康は、父松平広忠への大納言贈官を申請し勅許を得ました。これは若くして苦労の中で亡くなった父への孝行でしょうか。家康は大樹寺で先祖の墓参りをするために駿府を出発します。岡崎城に入り、大樹寺に参詣するのですが、長年の年月で苔むしているのを自分の爪ではがしながら拝みました。家康の大樹寺参詣は、これが最後となりました。

家康没後、三代将軍家光の時に大樹寺の伽藍は整えられます。本堂以下が新築されたのです。この時にあの立派な山門も建てられました。大方丈もは狩野派の障壁画で飾られました。しかし大樹寺は幕末の安政2年(1855)に火事で主要な建物を全焼させています。本堂・大方丈・御霊殿・開山堂・庫裏などが焼失しました。本堂や庫裏とつながっていない多宝塔・鐘楼・山門は無事でした。この火事の後、大樹寺は幕府に再建を願い出ます。財政難の幕府は難色を示すのですが、将軍家菩提寺の大樹寺です。幕府は再建を決定しました。しかし財政難から規模を縮小しての再建となりました。ですから江戸時代の大樹寺は今の大樹寺よりかなり規模が大きかったのです。それは焼失しなかった山門が、本堂と不釣り合いなほど大きいことでもわかります。

この再建された大樹寺を参詣したのが14代将軍家茂です。現職将軍の参詣はこれが最初にして最後です。慶應元年(1865)、第二次長州征伐のために江戸城を出発した家茂は、岡崎城に入った翌日に大樹寺に詣でました。再建された大方丈上段の間(将軍お成りの間)で休憩した後、松平八代の墓や歴代将軍の位牌を拝みました。その後、家茂は大坂城で没し、2年後には大政奉還で江戸幕府は倒されます。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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2013年01月18日

50年前の藤川


東部地域交流センター・むらさきかんにて、「50年前の藤川」というテーマで写真が展開されています。
当時の人々の表情やくらしの中の一枚が見ることができます。
興味がある方は是非むらさきかんへ!

撮影日  平成25年1月
撮影場所 藤川町
投稿者  SUZUKI

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2013年01月17日

新駅舎の岡崎駅


1990年に橋上駅舎化、その後岡崎南部地区整備にてイオンモール岡崎、岡崎合同庁舎(シビックセンター)、東口新バスターミナルが誕生。アクセス面で便利になり、南地区の玄関として発展しています。

完成当初は木造倉庫、旧店舗、国鉄型電車、ユニチカへ向う貨物列車、愛環カラー電車にもなつかしさが見られました。

撮影日  1991年4月
撮影場所 東海道本線・愛知環状鉄道岡崎駅
投稿者  榊原 秀明

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2013年01月15日

アーカイブス 本宿風景


当時国道1号線は片側2車線、東名高速道路の下を名鉄電車が走っていました。

撮影日  昭和62年1月
撮影場所 名鉄本線・本宿駅付近
投稿者  榊原 秀明

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2013年01月14日

十四松平〜家康は安城松平家〜

家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)


図は新編岡崎市史2より

図を見てわかるように、松平家は三河支配を進める中で、子供たちを次々と分家させ、三河各地に配置しました。この松平諸家を14松平と言います。松平宗家三代目の信光は、竹谷松平・形原松平・岡崎松平・五井松平・深溝松平(五井の分家)・能見松平・長沢松平を分家し、松平宗家4代目の親忠は、大給松平・滝脇松平を分家し、松平宗家5代目の長親は、福釜松平・桜井松平・青野(のち東条)松平・藤井松平を分家し、松平宗家6代目信忠は、三木松平を分家しました。これで14松平です。

図を見ると、加茂の松平郷から起こった松平家ですが、額田の岩津に本拠地を移して以後、三河の各要地に分家を配置しながら、三河湾の海岸交通をおさえるために南下を目指した様子がうかがえます。この松平一族の結束があったからこそ三河支配ができたのですが、一族の中で内輪もめもありました。岡崎松平家と安城松平家の争いがあります。岡崎松平家は、松平信光の5男光重が、岡崎城主西郷頼嗣の娘婿として岡崎城に入ることで岡崎松平家初代となります。その後、安城松平家と本家争いを起こし、安城松平家の清康に討たれて大草(今の幸田町)に退きました。それ以後、岡崎松平家は大草松平家と呼ばれるようになり、安城松平家が本家となります。清康が居城を安城から岡崎に移したので、家康は岡崎城で誕生しましたが、徳川将軍家は安城松平家の子孫です。それ以外の14松平家は、江戸時代に大名や旗本に取り立てられています。深溝松平家は肥前島原7万石の大名、大給松平家は三河西尾6万石の大名、形原松平家は丹波亀岡5万石の大名などです。竹谷松平家は三河吉田3万石の大名でしたが、後継ぎがなくて領地を没収。しかし、家康の妹(天桂院)を嫁にもらった特別な家ということで、西郡(蒲郡)5千石の旗本となりました。今、蒲郡市の市章は、「丸に一の字」ですが、これは西郡を領有した竹谷松平家の家紋です。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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2013年01月13日

戦国時代の悲劇〜家康 平和への願い〜

家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)

徳川幕府は、15代将軍徳川慶喜で終了しますが、徳川家は明治維新後も続いており、現在は家康から数えて18代目徳川恒孝という人が徳川宗家の当主です。その徳川恒孝さんが書いた「家康公の平和思想」という本に、次のように書かれています。

「国が一番やらなけらばいけない仕事は、国の安全を守るということです。国民の生命を守り、毎日の平穏な生活を守り、財産を守る。家康公が考えられたことも、まさにこのことでした。皆が平和に暮らせる世界、それが浄土である。欣求浄土ですね。まさにこの一点で家康公は戦国の世を乗り切って幕府を開かれたと思います。大坂夏の陣が終わって、戦国の世が完全に終りを告げたときに、家康公は「元和」(げんな)という年号を付けられました。元(もと)という字に平和の和です。ここから平和が始まるという年号にし、「元和偃武」ということを宣言しました。偃とは伏せる意味、つまりこれからは平和な世界になるから、もう武器をおさめて用いない、という意味です。この宣言以降徳川幕府が250年後に終わるまで、完全な平和が保たれていたのです。」

戦国時代の悲劇を身をもって体験した家康が求めたもの、それは戦のない平和な世界でした。戦国時代の悲劇について、もう少し紹介してみましょう。

岡崎市夏山町の華蔵院に「仙丸君裹首布」という血染めの白布が保存されています。「裹首布」(かしゅふ)とは、人の首を裹(つつ)んだ布のことです。仙丸君とは、奥平貞能の二男で武田方の人質となり甲州に送られていた少年です。作手の奥平、長篠の菅沼、田峯の菅沼は山家三方衆と呼ばれる三河山間部における有力氏族でしたが三河へ侵攻しようとする武田勢と三河を守ろうとする徳川勢に挟まれ、そのどちら側に付くか、常に選択を迫られていました。最初奥平氏は武田勢の動きを見て武田方につき、一族から人質を出しました。それが当主貞能の二男仙丸(10歳)と一族の子である虎之助(13歳)・於フウ(13歳)の3人でした。ところが武田信玄の死を知った貞能が、武田方を離れて徳川方に走ったのです。奥平の離反を確かめた武田勝頼は、3人の人質を処刑します。処刑の仕方にはいくつかの説があります。切腹・磔・鋸引き。その悲鳴に人々は震え上がったとも言います。亡骸は鳳来寺参詣の人々に知らしめるように晒されました。人質の付添いであった乳母たちが、刑場に晒された人質の亡骸を秘かに奪って運び出したということです。その後、仙丸の兄奥平貞昌は、長篠の戦いで長篠城を守り抜き、家康の長女亀姫を嫁にもらいます。そして奥平家は江戸時代、10万石の大名家として栄えます。しかし一族の生き残りをかけた戦国の決断の中で、人質処刑という悲劇が起きました。徳川家康も少年時代に織田・今川の両勢力に挟まれて人質を経験しています。家康は処刑という事態に至りませんでしたが、戦国時代の悲劇をよく知っています。だからこそ、平和を強く願ったと思います。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(0)歴史の風景