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2010年10月23日

とらさん


①「とらさん」と言えば「お調子もん」で「自分勝手」そして「いつも振られてしまう」そんな葛飾柴又の「とらさん」を思い出しますが、岡崎に素晴らしい「とらさん」が実在しました。

発端は以前、岡崎市のホームページ「今週の昔ばなし」に「孝行娘とら」が紹介されており興味を持ちました。 現在もコーナーはありますが掲載されておりません。電話して確認すると何と実在の人物で古部町と生平小学校に「とらさん」の石像があると教えて頂きました。

古部町と言えば私は訪問した事があり当時の写真を昨年10月20~22日と掲載して頂いております。まさか「古部の大椋」と祠の間を通って30m程先に「孝婦碑」があり、道路沿いに「孝婦像」があったとは気付きませんでした。これも何かの縁という訳で今回再チャレンジした次第です。

「とらさん」とは「親孝行の鑑、それが岡崎の『とらさん』です。」

「岡崎の人物史」(岡崎の人物史編集委員会編)以下原文

「父母に孝養を尽くし、農民の範と讃えられた人」
とら女は、岡崎藩領古部村(古部町)に、病弱な父母と三人で細々と薪を売って暮らしていた。父が病床につくと、一人で山に入り、薪を採って城下で売った。たまたま村人からもらった膏薬を父につけると、痛みはとれた。この薬が池鯉鮒(知立)で売られていることを聞くと、遠い道のりをいとわず、買い求めて孝養を尽くした。とら女の評判は日ごとに広まっていった。

幕府の巡検使が欠村(欠町)の茶屋で休んでいる折、通りかかったとら女を見て茶屋の主人がその孝心を話すと、巡検使はすっかり感心して、薬料にととら女に金子を与えて去った。

巡検使は江戸に着くと、すぐ岡崎藩主水野忠之に言上した。忠之は自分のことのように喜んだ藩主は、1724年(享保九年)賞詞と金子三十貫文と米五俵を与えて孝心をたたえ、家、屋敷を整え田畑を買いもどし、年貢を免除した。九年後、孝婦の碑は藩主忠輝によって古部の地に建てられた。・・・・・云々と続く


②「孝婦碑」  岡崎市史20巻には「とら」として1/2ページ分の記述 以下全文

とら 1690~1777 江戸中期の額田郡の農民・孝婦。古部村の生まれ。家が貧しいため幼い頃より病弱の父母を助け薪を採り3里の道を岡崎城下へ売りに出かけ、また池鯉鮒宿(現知立市)まで往復14里の道を通って父の薬をもとめるなどの孝養ぶりが評判となった。

享保9年(1724)当時の岡崎藩主水野忠之から銭30貫・米5俵の褒章を受けた。さらに藩主は同17年に、とらの祖父治郎平が質入した田畑や山林も買い戻してとら女に与え、子々孫々まで年貢などすべての諸役を免除した。翌18年にはとら女の孝養を顕彰して家の傍らに荻生徂徠の門人で水野家江戸家老松本尚〓の撰文による「孝婦碑」が建てられた。さらに明和6年(1769)には当時の岡崎藩主松平康福の命によって、とら女の家屋敷・蔵まで藩の費用で新築された。

過分と思われるほどの領主によるこのような褒賞は、享保改革時の老中を務めた松平康福が民衆教科策の一環として、まず領内で率先して実践したものであろう。さらにとら女とその子孫への年貢免除などの特典は、明和7年に入部した後本多家にも引き継がれた。

とら女の孝養物語は「官刻孝義録」(享和元年刊)など各種の孝子録に紹介され有名となった。

とら女が父のために薬を購めて往復する途中、欠村の茶店で休息していた幕府巡検使と遭遇し、このことがやがて江戸城内で水野忠之に報告されたというエピソードが岡崎藩儒者松下鳩台の随筆「山家樵談」に紹介されている。

とら女は34歳のころに岡崎城下町から養子を迎え一女を生んだがなぜか孝子碑建立の数ヶ月後に離縁した。おそらく孝女の夫としてなにかふさわしくないようなことがあったのかもしれない(城殿輝雄 生平のむかし)。しかしとら女は孝女の鑑として長命を保ち天寿を全うした。
なお、とら女の子孫は柴田姓を称した。 
以上

いろんな資料から考えても「とらさん」への処遇は破格、異例だったように思えます。
時代を考えますと全国でちらほら百姓一揆が起き始めたころで他聞に政治的意図もあったように推察できます。   


③生平小学校の「とらさん」像
教頭先生から「孝婦とらの生涯」という資料を頂いた。原本は「生平のむかし」 城殿輝雄著昭和59年の発行時、生平小学校の校長先生をされて いた方です。本の中「ふるさとシリーズその14」として8ページの記述がありました。 以下原文

孝婦とらは単に古部町のみならず、生平学区のほこりであると共に自慢のたねでもある。
古部町の入り口には「孝婦之閭」、とらの屋敷跡には「孝婦碑」があり、公民館前には倉橋保範氏設計になる孝婦之像がある。

また、生平小学校の校庭にも孝婦像が、特志者により立てられて子どもたちに親しまれている。
それなのに、とらのことについては、げたとぞうりをはいて薪を背負い、父親の薬を知立まで買いに行ったこと以外あまり知られていない。

昨年学芸会で、とらのことについて発表したが、その後発見された古文書等により、知られなかったとらの生涯を追ってみよう。とらのことについての最大の発見は、履歴書である。

杉山与助氏のお蔵の中からそれは発見された。享保17年12月24日という日付から、とらが第2回目に表彰された時より約半年後、代官青木十蔵に提出したものであるが、その下書きででもあろうか。杉山与助氏の先祖が、当時古部村の村役人を勤めていたために残されて
いたものであろう。・・・・・・以下云々と続く


④生平小学校の「とらさん」像の足元「続 岡崎のむかしばなし」岡崎の昔話編集委員会 から抜粋
・・・・・・・・・・・・
古部の村にとらという女のこがいました。おじいさんの代に田んぼや山を売ってしまったのでたいそうびんぼうでした。そのため、とらはちいさいころからよその家の手伝いや子守りをして両親を助けていました。

とらは、一番どりが鳴くころから山に出かけ、とってきたたきぎを三里(約12キロメートル)もはなれた岡崎の城下へ売りにいくのです。

ある雨のふりそうな日でした。とらが城下へたきぎを売りに行こうとすると、おとっつあんが、「雨がふるとこまるで、げたをはいて行け。」と言いました。

おっかさんは、「遠い道歩くだで、ぞうりにしな。」と言うのです。そこでこまったとらは考えたすえに、げたとぞうりをかた方ずつはいていきました。

重いたきぎを背負って、チンガトン、チンガトンと城下を売り歩いたのです。・・・・・・・・と続く

「続 岡崎のむかしばなし」「岡崎の人物史」「「岡崎市史3巻」岡崎市史20巻」「愛知県偉人伝」
「生平のむかし」いずれの本を読んでもとらさんは親孝行でありその行動は美しいと思いました。


※「古部の大椋」の「元持ち主」のおばさん、とらさんのお話有難うございました。

※石像の近くに お住まいの書道の先生、碑文の解説、注釈資料そしてお話有難うございました。

※生平小学校の教頭先生、「生平のむかし」資料有難うございました。

※茅原沢町交差点傍に昭和堂という和菓子屋さんがあり、とらさんの吉例にあやかり銘菓
「とらさん」 を売っておりました。

※ネットに「すぎやま」という方が、女金次郎さん2という形で「とらさん」を紹介しております。
http://kotenma.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-8278.html

撮  影  日  平成22年10月11日、14日
撮 影 場 所  古部町・生平町
投  稿  者  シモン

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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30│Comments(4)歴史の風景
この記事へのコメント
シモンさん、こんばんは。
「とらさん」のことを知ることができて光栄です。
ふるさとにこのような物語があることを誇りに思います。
薬を買い求めた距離、往復12里は約48キロメートルです。
気持ちのあたたまる親孝行話ですね。
そして、とらさんの事を石碑や石像などで後世に伝えている、
地元の人々がとらさんの事を語れる・・・
本当に素晴らしくかけがえのないものだと思います。
いいとこを紹介いただいたシモンさんに感謝です。
実際に自分の目でとらさんの生きた風景を見てみたいと思いました。
Posted by キノシタ at 2010年10月23日 21:49
おはようございます、キノシタさん

岡崎市民の「思いの風景」、「誇りの風景」がお伝えできて良かったです。孝婦碑は町内の方が

順番でお護りされているそうです。
Posted by シモン at 2010年10月24日 08:47
シモンさん
私の拙い、滞りがちのブログをご紹介いただきありがとうございます。
三河の二宮金次郎像の写真を撮り歩いてる途中で、
生平小学校で見つけ驚きました。
薪は背負ってるんですが、どう見ても女性ですし「孝婦虎像」と彫ってはあるんですが何のことかもわかりませんし。
で、興味を持って調べたんですが、なかなか詳しいことが
わかりませんでした。
後日、再調査に行った時に偶然とらさんをよくご存知の方に巡り合い記事のように現地に行ったということです。

さすがに石工の本場?だけあって、現在までに岡崎市内で
廃校跡も含めて23校の金次郎像の写真を撮りました。
まだ旧市内はあまり行ってないのでまだまだありそうです。
「孝婦虎像」も、おそらく岡崎の石工団地のどこかで彫られたものでしょうね。

最近見かける比較的新しい金次郎像は、「中国製」が多いようです。お顔がちょっと仏像っぽいんですよね。

岡崎方面も時々出かけますので(名古屋市在住です)
機会があればこちらのブログにも投稿できたらなと思います。
よろしくお願いします。
Posted by すぎやま at 2010年10月26日 10:44
こんばんは、すぎやまさん

コメント有難うございます。とらさんの石像は確かに女金次郎ですね。お恥ずかしい話、岡崎市民の
私は今回初めて知りました。すぎやまさん、ご指摘の「とらさん」は(1690~1777年)の人、二宮
金次郎さんは(1787~1856年)の人でとらさんは先輩、これを考慮すると岡崎市民としてもう少し
知名度をあげねばなりませんね。生平小学校 http://www.oklab.ed.jp/oidaira/page2-20.html
と像を建てた生平小学校の出身者11名の有志と古部町の方には「有難う」と「感謝」です。

さて、すぎやまさんのホームページTOPICSに掲載されている 火の見櫓の製作所「杉浦鍛工所」
訪問してのコメント 

 >あまりにも多くの「杉浦鍛工所」製の火の見櫓 の存在に接して、とても興味がわいて きました。
>もうこれは杉浦さんを一軒一軒当たるしかないということで、歩いて探してみると・・・・・・・

上記お気持ち、よ~く理解できます。現在84歳になられた杉浦さんさぞお喜びになったでしょうね。

 >もちろん工場で仮組みして 現地で組み立てるだけの準備をして行くわけですが、とび職4~5人
   で一気に組み建てて しまったそうです。

こういったお話を職人さん、いや匠からお聞きするのは私も大好きです。今後はすぎやまさん指摘
の屋根の形(反り)、半鐘、銘板等をチェックポイントに岡崎市の火の見櫓を観察してみます。

幸い24日のコメント覧に「明るい朝」さんが火の見櫓のマップを公開して下さっております。

この「岡崎いいとこ風景ブログ」は岡崎市民になって1年の方からの投稿や元岡崎市民の方から
のコメントも頂いており、大変メジャーなブログです。(*^_^*)

名古屋市民のすぎやまさんも遠慮なさらずぜひ岡崎市の二宮金次郎、火の見櫓、岡崎市の
「いいとこ」とか「おきにいり」がありましたら投稿お願いします。たぶん管理人の都市計画課さんも
そう思っていらっしゃると思います。ρ(⌒-⌒。)ノ
Posted by シモン at 2010年10月26日 21:54
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