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2013年01月05日

西三河の旗頭「石川家成」の碑

家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)  

三河を平定した頃の徳川家臣団は、三備(みつぞなえ)といわれる軍制でした。東三河は酒井忠次、西三河は石川家成が旗頭となり、それぞれの地区の武将を統率し、もう一つが家康直属の旗本武将でここに本多忠勝・榊原康政・鳥居元忠・大久保忠世らが所属していました。東西三河の旗頭である酒井忠次と石川家成が、徳川家臣団の重臣であることが分かります、

石川家成の母親は、徳川家康の生母於大の姉なので、二人は従兄弟ということにもなります。三河一向一揆の際、石川一門は一向宗の信徒でしたので多くが一揆側に加担をしたのですが、家成は一揆の鎮圧に努力し徳川家臣団の結束を固め、西三河旗頭となりました。永禄十二年(1569)、掛川城開城で今川氏が滅ぶと掛川城主となり、甥の石川数正に西三河旗頭を譲りますが、徳川家老臣としてその後も家康の側に仕えました。家康の天下統一を見届けた後、享年76歳で病没しますが、その遺体は故郷である岡崎に運ばれ鴨田で荼毘にふされました。

西三河の旗頭「石川家成」の碑
旧亀山藩士有志が大正時代に建てた石川家成荼毘之碑。
西三河の旗頭「石川家成」の碑
西三河の旗頭「石川家成」の碑
石川家成の甥石川数正は、家康の長男信康が切腹した後に岡崎城代となりましたが、その後、豊臣方に出奔しました。また松本城を築いたことでも知られています。
石川家は、江戸時代中期に伊勢亀山藩の城主となり明治を迎えるまで統治しました。旧亀山藩士による碑建立はそのためでしょう。


撮影日  不明
撮影場所 鴨田町
投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30│Comments(0)歴史の風景
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