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2013年01月12日

岡崎市内にあった藩

家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)

尾張地方が、尾張(名古屋)藩62万石という大きな藩にまとめられているのに対して、三河地方は小さな藩に分割されていました。吉田藩(今の豊橋市)7万石、西尾藩6万石、岡崎藩5万石を三河三都と呼びますが、それ以外にも刈谷藩2万3千石、挙母藩(今の豊田市)2万石、田原藩1万2千石などがありました。そして今の岡崎市内には、岡崎藩以外に奥殿藩1万6千石や西大平藩1万石がありました。尾張に犬山城3万5千石がありますが、これは藩ではありません。犬山城の成瀬家は尾張藩の家老です。尾張藩は御三家筆頭の大大名。家老でも大名以上の石高がありました。

 奥殿藩は大給松平家から分かれた家です。大給松平家の本家は西尾藩6万石です。分家の大給松平家が、加茂郡の大給から額田郡の奥殿に居所を移しましたので、奥殿藩ができました。奥殿藩主の居所が奥殿陣屋です。今も奥殿陣屋の裏には奥殿藩歴代藩主のお墓が並んでいます。奥殿藩は1万6千石という小さな藩ではありましたが、徳川将軍家につながる松平家の藩です。この山間の小藩から有名人が続出しています。まず11代藩主松平乗謨(のりかた)は、幕末に幕府の若年寄・老中格となり陸軍総裁に抜擢されます。フランス語が自由に話せたという乗謨は幕府軍をフランス流に改革しようと努力しました。西洋式城郭である五稜郭も作りました。また明治維新を迎えると松平の姓を捨て、大給恒(ゆずる)と改名します。大給恒は日本赤十字社の創設者として知られています。西南戦争での負傷者救済のために博愛社を設け、これが今の日本赤十字社となりました。さらに賞勲局総裁として日本の勲章制度を創設しました。毎年、旭日章とか瑞宝章とか宝冠章などの勲章授与が発表されますが、これは大給恒が創設したものです。次に永井尚志。奥殿藩主の子ですが、旗本永井家の養子となりました。永井尚志は江戸幕府目付として長崎海軍伝習所長となり勝海舟・榎本武揚らを育てます。そこから坂本龍馬らも出てくるわけですから近代日本海軍生みの親といったところです。永井は「仁」のドラマにも出ていました。さらに永井は勘定奉行・外国奉行・若年寄などの幕府要職に就き、将軍側近として大政奉還にもかかわりました。ですから京都二条城にある大政奉還の広間には、永井の人形もあります。もう一人は玄々斎宗室。奥殿藩主の子ですが、茶道家元裏千家の養子となり裏千家11代当主として近代茶道の確立に努めました。奥殿松平家の菩提寺が梅香山林宮寺。その梅香山から香山中学校の校名ができました。ですから今も新香山中学校の校章は、奥殿松平家の家紋である蔦の葉をデザインしています。
 西大平藩は男川小学校のすぐ近くに陣屋跡があります。これはドラマでお馴染みの江戸町奉行大岡越前守忠相が西大平に領地をもらってできた藩です。大岡忠相は低い身分の出身でしたが、長年の活躍により大名に取り立てられました。
 奥殿藩も西大平藩も陣屋は岡崎市内ですが、領地の多くは市外にありました。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30│Comments(0)歴史の風景
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