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2013年01月13日

戦国時代の悲劇〜家康 平和への願い〜

家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)

徳川幕府は、15代将軍徳川慶喜で終了しますが、徳川家は明治維新後も続いており、現在は家康から数えて18代目徳川恒孝という人が徳川宗家の当主です。その徳川恒孝さんが書いた「家康公の平和思想」という本に、次のように書かれています。

「国が一番やらなけらばいけない仕事は、国の安全を守るということです。国民の生命を守り、毎日の平穏な生活を守り、財産を守る。家康公が考えられたことも、まさにこのことでした。皆が平和に暮らせる世界、それが浄土である。欣求浄土ですね。まさにこの一点で家康公は戦国の世を乗り切って幕府を開かれたと思います。大坂夏の陣が終わって、戦国の世が完全に終りを告げたときに、家康公は「元和」(げんな)という年号を付けられました。元(もと)という字に平和の和です。ここから平和が始まるという年号にし、「元和偃武」ということを宣言しました。偃とは伏せる意味、つまりこれからは平和な世界になるから、もう武器をおさめて用いない、という意味です。この宣言以降徳川幕府が250年後に終わるまで、完全な平和が保たれていたのです。」

戦国時代の悲劇を身をもって体験した家康が求めたもの、それは戦のない平和な世界でした。戦国時代の悲劇について、もう少し紹介してみましょう。

岡崎市夏山町の華蔵院に「仙丸君裹首布」という血染めの白布が保存されています。「裹首布」(かしゅふ)とは、人の首を裹(つつ)んだ布のことです。仙丸君とは、奥平貞能の二男で武田方の人質となり甲州に送られていた少年です。作手の奥平、長篠の菅沼、田峯の菅沼は山家三方衆と呼ばれる三河山間部における有力氏族でしたが三河へ侵攻しようとする武田勢と三河を守ろうとする徳川勢に挟まれ、そのどちら側に付くか、常に選択を迫られていました。最初奥平氏は武田勢の動きを見て武田方につき、一族から人質を出しました。それが当主貞能の二男仙丸(10歳)と一族の子である虎之助(13歳)・於フウ(13歳)の3人でした。ところが武田信玄の死を知った貞能が、武田方を離れて徳川方に走ったのです。奥平の離反を確かめた武田勝頼は、3人の人質を処刑します。処刑の仕方にはいくつかの説があります。切腹・磔・鋸引き。その悲鳴に人々は震え上がったとも言います。亡骸は鳳来寺参詣の人々に知らしめるように晒されました。人質の付添いであった乳母たちが、刑場に晒された人質の亡骸を秘かに奪って運び出したということです。その後、仙丸の兄奥平貞昌は、長篠の戦いで長篠城を守り抜き、家康の長女亀姫を嫁にもらいます。そして奥平家は江戸時代、10万石の大名家として栄えます。しかし一族の生き残りをかけた戦国の決断の中で、人質処刑という悲劇が起きました。徳川家康も少年時代に織田・今川の両勢力に挟まれて人質を経験しています。家康は処刑という事態に至りませんでしたが、戦国時代の悲劇をよく知っています。だからこそ、平和を強く願ったと思います。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30│Comments(0)歴史の風景
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