2013年01月14日
十四松平〜家康は安城松平家〜
家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)
図は新編岡崎市史2より
図を見てわかるように、松平家は三河支配を進める中で、子供たちを次々と分家させ、三河各地に配置しました。この松平諸家を14松平と言います。松平宗家三代目の信光は、竹谷松平・形原松平・岡崎松平・五井松平・深溝松平(五井の分家)・能見松平・長沢松平を分家し、松平宗家4代目の親忠は、大給松平・滝脇松平を分家し、松平宗家5代目の長親は、福釜松平・桜井松平・青野(のち東条)松平・藤井松平を分家し、松平宗家6代目信忠は、三木松平を分家しました。これで14松平です。
図を見ると、加茂の松平郷から起こった松平家ですが、額田の岩津に本拠地を移して以後、三河の各要地に分家を配置しながら、三河湾の海岸交通をおさえるために南下を目指した様子がうかがえます。この松平一族の結束があったからこそ三河支配ができたのですが、一族の中で内輪もめもありました。岡崎松平家と安城松平家の争いがあります。岡崎松平家は、松平信光の5男光重が、岡崎城主西郷頼嗣の娘婿として岡崎城に入ることで岡崎松平家初代となります。その後、安城松平家と本家争いを起こし、安城松平家の清康に討たれて大草(今の幸田町)に退きました。それ以後、岡崎松平家は大草松平家と呼ばれるようになり、安城松平家が本家となります。清康が居城を安城から岡崎に移したので、家康は岡崎城で誕生しましたが、徳川将軍家は安城松平家の子孫です。それ以外の14松平家は、江戸時代に大名や旗本に取り立てられています。深溝松平家は肥前島原7万石の大名、大給松平家は三河西尾6万石の大名、形原松平家は丹波亀岡5万石の大名などです。竹谷松平家は三河吉田3万石の大名でしたが、後継ぎがなくて領地を没収。しかし、家康の妹(天桂院)を嫁にもらった特別な家ということで、西郡(蒲郡)5千石の旗本となりました。今、蒲郡市の市章は、「丸に一の字」ですが、これは西郡を領有した竹谷松平家の家紋です。
投稿者 大樹寺小学校・都市計画課
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岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)
図は新編岡崎市史2より
図を見てわかるように、松平家は三河支配を進める中で、子供たちを次々と分家させ、三河各地に配置しました。この松平諸家を14松平と言います。松平宗家三代目の信光は、竹谷松平・形原松平・岡崎松平・五井松平・深溝松平(五井の分家)・能見松平・長沢松平を分家し、松平宗家4代目の親忠は、大給松平・滝脇松平を分家し、松平宗家5代目の長親は、福釜松平・桜井松平・青野(のち東条)松平・藤井松平を分家し、松平宗家6代目信忠は、三木松平を分家しました。これで14松平です。
図を見ると、加茂の松平郷から起こった松平家ですが、額田の岩津に本拠地を移して以後、三河の各要地に分家を配置しながら、三河湾の海岸交通をおさえるために南下を目指した様子がうかがえます。この松平一族の結束があったからこそ三河支配ができたのですが、一族の中で内輪もめもありました。岡崎松平家と安城松平家の争いがあります。岡崎松平家は、松平信光の5男光重が、岡崎城主西郷頼嗣の娘婿として岡崎城に入ることで岡崎松平家初代となります。その後、安城松平家と本家争いを起こし、安城松平家の清康に討たれて大草(今の幸田町)に退きました。それ以後、岡崎松平家は大草松平家と呼ばれるようになり、安城松平家が本家となります。清康が居城を安城から岡崎に移したので、家康は岡崎城で誕生しましたが、徳川将軍家は安城松平家の子孫です。それ以外の14松平家は、江戸時代に大名や旗本に取り立てられています。深溝松平家は肥前島原7万石の大名、大給松平家は三河西尾6万石の大名、形原松平家は丹波亀岡5万石の大名などです。竹谷松平家は三河吉田3万石の大名でしたが、後継ぎがなくて領地を没収。しかし、家康の妹(天桂院)を嫁にもらった特別な家ということで、西郡(蒲郡)5千石の旗本となりました。今、蒲郡市の市章は、「丸に一の字」ですが、これは西郡を領有した竹谷松平家の家紋です。
投稿者 大樹寺小学校・都市計画課
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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30│Comments(0)
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