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2013年01月20日

岡崎藩六万石の改革

家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)



現在の日本政府も、行政改革や財政改革が必要とされていますが、江戸時代の岡崎藩も行財政改革が必要でした。岡崎藩の行財政改革に挑戦し挫折した若き岡崎藩主が水野忠辰(ただとき)です。

水野忠辰は14歳(16歳説もある)で三河岡崎六万石の藩主となりました。この水野家は、徳川家康の母親於大の実家ですから、徳川譜代大名の名門です。水野家が三河吉田藩から三河岡崎藩へ国替えとなったのは、1645年、大坂城が落城し徳川幕府が安泰となって30年後のことです。これ以後、水野家は7代にわたり118年間、岡崎藩を統治しました。その中で最も有名な藩主が4代目の水野忠之です。忠之は8代将軍徳川吉宗によって江戸幕府老中に抜擢され、享保の改革に着手して江戸幕府の行財政改革を断行しました。この功績に対して、将軍吉宗は水野家に一万石を加増し岡崎藩は五万石から六万石になったのです。また水野忠之は忠臣蔵で有名な赤穂浪士のうち神崎与五郎ら9名の浪士を預かり、切腹まで手厚く接待をしました。

この水野忠之の孫が6代目藩主水野忠辰です。14歳(16歳)で藩主となった忠辰は、幼児より学問を好み、儒教の政治思想を目標に自ら政務を執る覚悟で岡崎藩の行財政改革に乗り出しました。江戸幕府で享保の改革の中心となって活躍した偉大な祖父忠之への思いも強かったと思います。保守的な老臣を藩政から退け、若手の人材登用をはかります。また下級武士からの人材抜擢も行い藩政刷新を行おうとしました。しかし藩政に新風を吹き込もうとする忠辰のやり方は、強大な老臣連合との間に衝突を起こします。忠辰は国家老や江戸詰年寄に強制隠居を命じ、抵抗勢力を抑え込もうとするのですが、これに対し岡崎在住の家老・年寄全員が城内出仕を拒否、つまり重臣たちがストライキを起こして藩主忠辰に反抗したのです。これにより藩の政務が滞り岡崎藩内の空気が緊迫しました。これが「岡崎騒動」と呼ばれる事件です。忠辰は側近を派遣して重臣たちに協力を求めますが、重臣たちは譲歩しません。江戸詰年寄も重臣側についてしまいます。結局、忠辰は重臣たちに屈服し、藩政改革は挫折に終わりました。忠辰から処分を受けた重臣たちはもとに復帰し、新たに登用した忠辰側近は追放されてしまいました。

以後、この若き藩主は人が変わりました。深い挫折感からでしょうか、毎夜吉原に通い続け、湯水のように金を使い、放埒な生活に明け暮れます。生母順性院は、忠辰に反省を促すために自殺。ついに忠辰は重臣たちから狂気を理由に座敷牢へ閉じ込められてしまいます。翌年には29歳(31歳)の若さで亡くなりました。

忠辰の改革は徹底した倹約と緊縮財政により、窮乏藩士を救済し、領内百姓の年貢も減免しました。最終的には失敗しましたが、一般藩士や領民から慕われた藩主です。そして、この水野忠辰の子孫から江戸幕府天保の改革の旗手水野忠邦が登場します。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30│Comments(0)歴史の風景
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