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2013年01月27日

徳川家康エピソード編ー鳥居忠吉、密かに米銭を貯える

家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)


家康が人質として駿河にいた頃、今川氏は御家人の阿部・石川の2人に岡崎を守らせ、鳥居・松平の2人に岡崎領の管理を執り行わせていました。岡崎領からの年貢は今川氏が無理やり奪ってしまうので、鳥居忠吉はひとり苦労して長年にわたり米や銭などをたくさん貯蓄し、今後の軍事のために備えていました。

家康が先祖墓参のために岡崎へ一時帰国することが決まると、家康の帰城を待ち構えていた鳥居忠吉は喜びをおさえきれずに家康の手を引き蔵へ連れて行き申し上げました。「私が長年今川の人々に内緒でこのようなことをしましたのは、君がすぐにでもご帰国なされてご出馬される時、御家人を育み、軍用にも事欠かないようにするため、このように備えていました。私は、80歳という残り少ない余命ながら、朝夕に神仏へ祈ったかいがあって、今このように生前に再び君の尊厳を拝し申し上げることは、生涯これ以上の大きな幸せはございません」と、老眼に涙を浮かべて申し上げました。家康も忠吉の長年の忠義心と資材まで用意していたことに感動し、色々と厚く忠吉を労いました。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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2013年01月26日

井ノ口砦の戦い

家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)



井ノ口砦とは、井ノ口町字楼にあった中世の砦で、現在の井ノ口稲荷社のところにありました。今も井ノ口稲荷の神社境内へ行くと、北に張り出す台地の先端になっており、砦を築くにはよい立地条件であることがよく分かります。中世、矢作川を渡るには「上の瀬」「中の瀬」「下の瀬」という3カ所の渡河地点がありました。北野と大門を結ぶのが「上の瀬」、矢作と八帖を結ぶのが「中の瀬」、渡と六名を結ぶのが「下の瀬」と呼ばれており、交通の要所でした。当時の矢作川は現在のように堤防がなく、流路も一本化されず雨が降るたびに網の目状に乱流していました。そのような矢作川を渡るのに比較的に安定していたのがこの3カ所の渡河地点で、北野には古代寺院跡として北野廃寺の遺跡があります。この大門の「上の瀬」から東方約2キロの地点に井ノ口砦がありましたので東西交通を押さえる要地にあったということです。

寛正6年(1465)5月、額田郡で幕府や守護に反抗する蜂起事件が起こりました。蜂起したのは、丸山・大場・梁田といった牢人で、足利氏あるいは高氏に仕え額田郡南部の領地を所有した者たちですが、戦国動乱の中で一揆を起こし、井ノ口に砦を構えて立て籠りました。「上の瀬」と呼ばれた北野ー大門の渡河地点で矢作川を渡った街道は、本校学区を通過して行きます。京から鎌倉へ、または鎌倉から京へと多くの荷物が運ばれたことでしょう。その中には朝廷や室町幕府からの大切な荷物もありました。京と関東を結ぶ大切な交通路を遮断し、京都運送の荷物を押さえる絶好の場所に井ノ口砦があったのです。

井ノ口砦に立て籠もる牢人一揆に対する鎮圧が開始されました。その責任者は三河守護細川成之。室町幕府管領畠山政長からは、三河国内の諸勢力に対して守護への協力と一揆への加担禁止が命令され、一揆掃討作戦が進められました。鎮圧軍数百人が押し寄せて、三日三晩にわたって攻撃、ついに井ノ口砦は陥落し一揆勢は解体・逃亡しました。この時、室町幕府政所執事伊勢氏の被官であった松平信光が一揆討伐に協力し三河での勢力を強めました。一揆を起こした牢人たちの領地であった額田郡南部へと松平氏の領地が広がっていくことになるのです。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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2013年01月25日

堤防からの眺望(天白町側)


東海道本線が矢作川鉄橋を通過後、上和田町を中心に、竜美ヶ丘、明大寺~羽根そして幸田の山並みが広がります。撮影当時は発展途上のため、建物は少なめでした。

撮影日  平成4年6月
撮影場所 東海道本線西岡崎~岡崎
投稿者  榊原秀明

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2013年01月20日

岡崎藩六万石の改革

家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)



現在の日本政府も、行政改革や財政改革が必要とされていますが、江戸時代の岡崎藩も行財政改革が必要でした。岡崎藩の行財政改革に挑戦し挫折した若き岡崎藩主が水野忠辰(ただとき)です。

水野忠辰は14歳(16歳説もある)で三河岡崎六万石の藩主となりました。この水野家は、徳川家康の母親於大の実家ですから、徳川譜代大名の名門です。水野家が三河吉田藩から三河岡崎藩へ国替えとなったのは、1645年、大坂城が落城し徳川幕府が安泰となって30年後のことです。これ以後、水野家は7代にわたり118年間、岡崎藩を統治しました。その中で最も有名な藩主が4代目の水野忠之です。忠之は8代将軍徳川吉宗によって江戸幕府老中に抜擢され、享保の改革に着手して江戸幕府の行財政改革を断行しました。この功績に対して、将軍吉宗は水野家に一万石を加増し岡崎藩は五万石から六万石になったのです。また水野忠之は忠臣蔵で有名な赤穂浪士のうち神崎与五郎ら9名の浪士を預かり、切腹まで手厚く接待をしました。

この水野忠之の孫が6代目藩主水野忠辰です。14歳(16歳)で藩主となった忠辰は、幼児より学問を好み、儒教の政治思想を目標に自ら政務を執る覚悟で岡崎藩の行財政改革に乗り出しました。江戸幕府で享保の改革の中心となって活躍した偉大な祖父忠之への思いも強かったと思います。保守的な老臣を藩政から退け、若手の人材登用をはかります。また下級武士からの人材抜擢も行い藩政刷新を行おうとしました。しかし藩政に新風を吹き込もうとする忠辰のやり方は、強大な老臣連合との間に衝突を起こします。忠辰は国家老や江戸詰年寄に強制隠居を命じ、抵抗勢力を抑え込もうとするのですが、これに対し岡崎在住の家老・年寄全員が城内出仕を拒否、つまり重臣たちがストライキを起こして藩主忠辰に反抗したのです。これにより藩の政務が滞り岡崎藩内の空気が緊迫しました。これが「岡崎騒動」と呼ばれる事件です。忠辰は側近を派遣して重臣たちに協力を求めますが、重臣たちは譲歩しません。江戸詰年寄も重臣側についてしまいます。結局、忠辰は重臣たちに屈服し、藩政改革は挫折に終わりました。忠辰から処分を受けた重臣たちはもとに復帰し、新たに登用した忠辰側近は追放されてしまいました。

以後、この若き藩主は人が変わりました。深い挫折感からでしょうか、毎夜吉原に通い続け、湯水のように金を使い、放埒な生活に明け暮れます。生母順性院は、忠辰に反省を促すために自殺。ついに忠辰は重臣たちから狂気を理由に座敷牢へ閉じ込められてしまいます。翌年には29歳(31歳)の若さで亡くなりました。

忠辰の改革は徹底した倹約と緊縮財政により、窮乏藩士を救済し、領内百姓の年貢も減免しました。最終的には失敗しましたが、一般藩士や領民から慕われた藩主です。そして、この水野忠辰の子孫から江戸幕府天保の改革の旗手水野忠邦が登場します。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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2013年01月19日

大樹寺と徳川将軍

家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)




徳川将軍家の菩提寺である大樹寺の大方丈には、「将軍お成りの間」や「大名控えの間」があり、その襖には冷泉為恭による立派な障壁画が描かれています。

さて、大樹寺にある「将軍お成りの間」に入った江戸幕府の将軍はだれでしょうか。江戸幕府将軍15人のうち、大樹寺に参詣した将軍は一人だけです。14代将軍徳川家茂です。初代将軍徳川家康も大樹寺に参詣していますが、それは将軍になる前であったり、将軍を退いた後であったりしますから、現職の将軍が大樹寺に来て「将軍お成りの間」に入ったのは、14代将軍徳川家茂ただ一人ということになります。

関ヶ原の合戦で天下を掌握した家康は、全国に検地を施行します。この時、大樹寺領も確定され、鴨田町の一部と門前村で616石余の朱印状を家康からもらいます。(門前村というのは総門の南から鴨田南町そして大門学区にある大樹寺町にかけての村です)この大樹寺領に住む百姓によって収穫されるお米が616石余あり、そこから年貢が大樹寺に納められます。領主としての大樹寺は百姓から五公五民なら半分の約308石、六公四民なら約370石を受け取ることになります。その後も、大樹寺は将軍家菩提寺として、代々の将軍から朱印状を受けます。さて、家康の大樹寺参詣ですが、将軍引退後の慶長17年(1612)の1月です。前年、家康は、父松平広忠への大納言贈官を申請し勅許を得ました。これは若くして苦労の中で亡くなった父への孝行でしょうか。家康は大樹寺で先祖の墓参りをするために駿府を出発します。岡崎城に入り、大樹寺に参詣するのですが、長年の年月で苔むしているのを自分の爪ではがしながら拝みました。家康の大樹寺参詣は、これが最後となりました。

家康没後、三代将軍家光の時に大樹寺の伽藍は整えられます。本堂以下が新築されたのです。この時にあの立派な山門も建てられました。大方丈もは狩野派の障壁画で飾られました。しかし大樹寺は幕末の安政2年(1855)に火事で主要な建物を全焼させています。本堂・大方丈・御霊殿・開山堂・庫裏などが焼失しました。本堂や庫裏とつながっていない多宝塔・鐘楼・山門は無事でした。この火事の後、大樹寺は幕府に再建を願い出ます。財政難の幕府は難色を示すのですが、将軍家菩提寺の大樹寺です。幕府は再建を決定しました。しかし財政難から規模を縮小しての再建となりました。ですから江戸時代の大樹寺は今の大樹寺よりかなり規模が大きかったのです。それは焼失しなかった山門が、本堂と不釣り合いなほど大きいことでもわかります。

この再建された大樹寺を参詣したのが14代将軍家茂です。現職将軍の参詣はこれが最初にして最後です。慶應元年(1865)、第二次長州征伐のために江戸城を出発した家茂は、岡崎城に入った翌日に大樹寺に詣でました。再建された大方丈上段の間(将軍お成りの間)で休憩した後、松平八代の墓や歴代将軍の位牌を拝みました。その後、家茂は大坂城で没し、2年後には大政奉還で江戸幕府は倒されます。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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2013年01月18日

50年前の藤川


東部地域交流センター・むらさきかんにて、「50年前の藤川」というテーマで写真が展開されています。
当時の人々の表情やくらしの中の一枚が見ることができます。
興味がある方は是非むらさきかんへ!

撮影日  平成25年1月
撮影場所 藤川町
投稿者  SUZUKI

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2013年01月17日

新駅舎の岡崎駅


1990年に橋上駅舎化、その後岡崎南部地区整備にてイオンモール岡崎、岡崎合同庁舎(シビックセンター)、東口新バスターミナルが誕生。アクセス面で便利になり、南地区の玄関として発展しています。

完成当初は木造倉庫、旧店舗、国鉄型電車、ユニチカへ向う貨物列車、愛環カラー電車にもなつかしさが見られました。

撮影日  1991年4月
撮影場所 東海道本線・愛知環状鉄道岡崎駅
投稿者  榊原 秀明

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2013年01月15日

アーカイブス 本宿風景


当時国道1号線は片側2車線、東名高速道路の下を名鉄電車が走っていました。

撮影日  昭和62年1月
撮影場所 名鉄本線・本宿駅付近
投稿者  榊原 秀明

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2013年01月14日

十四松平〜家康は安城松平家〜

家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)


図は新編岡崎市史2より

図を見てわかるように、松平家は三河支配を進める中で、子供たちを次々と分家させ、三河各地に配置しました。この松平諸家を14松平と言います。松平宗家三代目の信光は、竹谷松平・形原松平・岡崎松平・五井松平・深溝松平(五井の分家)・能見松平・長沢松平を分家し、松平宗家4代目の親忠は、大給松平・滝脇松平を分家し、松平宗家5代目の長親は、福釜松平・桜井松平・青野(のち東条)松平・藤井松平を分家し、松平宗家6代目信忠は、三木松平を分家しました。これで14松平です。

図を見ると、加茂の松平郷から起こった松平家ですが、額田の岩津に本拠地を移して以後、三河の各要地に分家を配置しながら、三河湾の海岸交通をおさえるために南下を目指した様子がうかがえます。この松平一族の結束があったからこそ三河支配ができたのですが、一族の中で内輪もめもありました。岡崎松平家と安城松平家の争いがあります。岡崎松平家は、松平信光の5男光重が、岡崎城主西郷頼嗣の娘婿として岡崎城に入ることで岡崎松平家初代となります。その後、安城松平家と本家争いを起こし、安城松平家の清康に討たれて大草(今の幸田町)に退きました。それ以後、岡崎松平家は大草松平家と呼ばれるようになり、安城松平家が本家となります。清康が居城を安城から岡崎に移したので、家康は岡崎城で誕生しましたが、徳川将軍家は安城松平家の子孫です。それ以外の14松平家は、江戸時代に大名や旗本に取り立てられています。深溝松平家は肥前島原7万石の大名、大給松平家は三河西尾6万石の大名、形原松平家は丹波亀岡5万石の大名などです。竹谷松平家は三河吉田3万石の大名でしたが、後継ぎがなくて領地を没収。しかし、家康の妹(天桂院)を嫁にもらった特別な家ということで、西郡(蒲郡)5千石の旗本となりました。今、蒲郡市の市章は、「丸に一の字」ですが、これは西郡を領有した竹谷松平家の家紋です。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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2013年01月13日

戦国時代の悲劇〜家康 平和への願い〜

家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)

徳川幕府は、15代将軍徳川慶喜で終了しますが、徳川家は明治維新後も続いており、現在は家康から数えて18代目徳川恒孝という人が徳川宗家の当主です。その徳川恒孝さんが書いた「家康公の平和思想」という本に、次のように書かれています。

「国が一番やらなけらばいけない仕事は、国の安全を守るということです。国民の生命を守り、毎日の平穏な生活を守り、財産を守る。家康公が考えられたことも、まさにこのことでした。皆が平和に暮らせる世界、それが浄土である。欣求浄土ですね。まさにこの一点で家康公は戦国の世を乗り切って幕府を開かれたと思います。大坂夏の陣が終わって、戦国の世が完全に終りを告げたときに、家康公は「元和」(げんな)という年号を付けられました。元(もと)という字に平和の和です。ここから平和が始まるという年号にし、「元和偃武」ということを宣言しました。偃とは伏せる意味、つまりこれからは平和な世界になるから、もう武器をおさめて用いない、という意味です。この宣言以降徳川幕府が250年後に終わるまで、完全な平和が保たれていたのです。」

戦国時代の悲劇を身をもって体験した家康が求めたもの、それは戦のない平和な世界でした。戦国時代の悲劇について、もう少し紹介してみましょう。

岡崎市夏山町の華蔵院に「仙丸君裹首布」という血染めの白布が保存されています。「裹首布」(かしゅふ)とは、人の首を裹(つつ)んだ布のことです。仙丸君とは、奥平貞能の二男で武田方の人質となり甲州に送られていた少年です。作手の奥平、長篠の菅沼、田峯の菅沼は山家三方衆と呼ばれる三河山間部における有力氏族でしたが三河へ侵攻しようとする武田勢と三河を守ろうとする徳川勢に挟まれ、そのどちら側に付くか、常に選択を迫られていました。最初奥平氏は武田勢の動きを見て武田方につき、一族から人質を出しました。それが当主貞能の二男仙丸(10歳)と一族の子である虎之助(13歳)・於フウ(13歳)の3人でした。ところが武田信玄の死を知った貞能が、武田方を離れて徳川方に走ったのです。奥平の離反を確かめた武田勝頼は、3人の人質を処刑します。処刑の仕方にはいくつかの説があります。切腹・磔・鋸引き。その悲鳴に人々は震え上がったとも言います。亡骸は鳳来寺参詣の人々に知らしめるように晒されました。人質の付添いであった乳母たちが、刑場に晒された人質の亡骸を秘かに奪って運び出したということです。その後、仙丸の兄奥平貞昌は、長篠の戦いで長篠城を守り抜き、家康の長女亀姫を嫁にもらいます。そして奥平家は江戸時代、10万石の大名家として栄えます。しかし一族の生き残りをかけた戦国の決断の中で、人質処刑という悲劇が起きました。徳川家康も少年時代に織田・今川の両勢力に挟まれて人質を経験しています。家康は処刑という事態に至りませんでしたが、戦国時代の悲劇をよく知っています。だからこそ、平和を強く願ったと思います。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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2013年01月12日

岡崎市内にあった藩

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尾張地方が、尾張(名古屋)藩62万石という大きな藩にまとめられているのに対して、三河地方は小さな藩に分割されていました。吉田藩(今の豊橋市)7万石、西尾藩6万石、岡崎藩5万石を三河三都と呼びますが、それ以外にも刈谷藩2万3千石、挙母藩(今の豊田市)2万石、田原藩1万2千石などがありました。そして今の岡崎市内には、岡崎藩以外に奥殿藩1万6千石や西大平藩1万石がありました。尾張に犬山城3万5千石がありますが、これは藩ではありません。犬山城の成瀬家は尾張藩の家老です。尾張藩は御三家筆頭の大大名。家老でも大名以上の石高がありました。

 奥殿藩は大給松平家から分かれた家です。大給松平家の本家は西尾藩6万石です。分家の大給松平家が、加茂郡の大給から額田郡の奥殿に居所を移しましたので、奥殿藩ができました。奥殿藩主の居所が奥殿陣屋です。今も奥殿陣屋の裏には奥殿藩歴代藩主のお墓が並んでいます。奥殿藩は1万6千石という小さな藩ではありましたが、徳川将軍家につながる松平家の藩です。この山間の小藩から有名人が続出しています。まず11代藩主松平乗謨(のりかた)は、幕末に幕府の若年寄・老中格となり陸軍総裁に抜擢されます。フランス語が自由に話せたという乗謨は幕府軍をフランス流に改革しようと努力しました。西洋式城郭である五稜郭も作りました。また明治維新を迎えると松平の姓を捨て、大給恒(ゆずる)と改名します。大給恒は日本赤十字社の創設者として知られています。西南戦争での負傷者救済のために博愛社を設け、これが今の日本赤十字社となりました。さらに賞勲局総裁として日本の勲章制度を創設しました。毎年、旭日章とか瑞宝章とか宝冠章などの勲章授与が発表されますが、これは大給恒が創設したものです。次に永井尚志。奥殿藩主の子ですが、旗本永井家の養子となりました。永井尚志は江戸幕府目付として長崎海軍伝習所長となり勝海舟・榎本武揚らを育てます。そこから坂本龍馬らも出てくるわけですから近代日本海軍生みの親といったところです。永井は「仁」のドラマにも出ていました。さらに永井は勘定奉行・外国奉行・若年寄などの幕府要職に就き、将軍側近として大政奉還にもかかわりました。ですから京都二条城にある大政奉還の広間には、永井の人形もあります。もう一人は玄々斎宗室。奥殿藩主の子ですが、茶道家元裏千家の養子となり裏千家11代当主として近代茶道の確立に努めました。奥殿松平家の菩提寺が梅香山林宮寺。その梅香山から香山中学校の校名ができました。ですから今も新香山中学校の校章は、奥殿松平家の家紋である蔦の葉をデザインしています。
 西大平藩は男川小学校のすぐ近くに陣屋跡があります。これはドラマでお馴染みの江戸町奉行大岡越前守忠相が西大平に領地をもらってできた藩です。大岡忠相は低い身分の出身でしたが、長年の活躍により大名に取り立てられました。
 奥殿藩も西大平藩も陣屋は岡崎市内ですが、領地の多くは市外にありました。

投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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2013年01月11日

ホームから眺めた東岡崎南口


昭和時代は貨物側線があり、廃止後は電車留置線と自転車駐輪場と駐車場にて利用。
現在はセントラルフィトネスクラブ岡崎、名鉄協商パーキング、南口バスのりばに一新整備されています。
旧2番線のりばは1番線に変更されています。

撮影日  昭和62年4月
撮影場所 名鉄名古屋本線東岡崎駅
投稿者  榊原 秀明

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2013年01月06日

岡崎城の殿様

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岡崎城は西郷頼嗣によって築城されましたが、松平清康が安城から移り、徳川家康が城内で生まれましたので、「神君出生の城」として神聖視されてきました。

家康は永禄三年(1560)、19歳で自立して岡崎城主となりました。しかし長男信康は9年後に切腹。その後は家康重臣の石川数正、ついで本多重次が城代となります。信康切腹は織田信長の命令によるもの。石川数正は豊臣秀吉への出奔により岡崎城を去りました。岡崎城代が秀吉のもとへ逃げたのですから、岡崎城の軍事機密が秀吉に漏れてしまいます。この時に岡崎城の機密や軍制が変更されました。次に本多重次が岡崎城代となった時に、秀吉の母親大政所が岡崎へ人質としてやってきます。家康が秀吉に会うために上洛する、それと引き換えに送り込まれた人質です。岡崎城代本多重次(厳しい性格から鬼の作左衛門と呼ばれました)は、大政所宿所のまわりに薪を高く積み上げ、万に一つ、主君家康が秀吉に捕らえられるようなことがあれば、この薪に火をつけて大政所を焼き殺すと脅しました。

家康と秀吉の講話が成り、家康が天下人秀吉の命令で関東へ移されると岡崎城へは秀吉の家臣田中吉政が入ります。岡崎城や岡崎城下町を整えたのはこの豊臣武将田中吉政です。城の周りに総延長4.7キロに及ぶ惣堀を巡らしました。いわゆる田中堀です、菅生川の南を通っていた東海道を城内に導き入れ、いわゆる二十七曲りの街路を作り矢作橋をかけました。豊臣武将田中吉政が整備した岡崎城下町ですから、田中堀や二十七曲りは、江戸にいる家康から大坂にいる秀吉を守るための防備です。この時、岡崎は豊臣方の支配下にあり、家康は岡崎の敵であったわけです。また田中吉政は三河及び尾張に領地を持つ十万石の大名でしたから、岡崎十万石です。

関ヶ原の合戦後、田中吉政は九州の栁川へ移され、岡崎城主は徳川家の譜代大名で固められます。まず、本多康重が五万石で岡崎城主となり、以後本多家が四代岡崎城主を務めます。これを前本多と言います。次に水野忠善が五万石で岡崎城主となり、以後水野家が七代岡崎城主を務めます。この水野家は家康の母親於大の実家です。水野家四代目藩主忠之が有名です。まず忠臣蔵の赤穂浪士9名を江戸藩邸に引き取り切腹まで世話をしました。さらに江戸幕府老中となり八代将軍徳川吉宗による享保の改革の中心人物となって活躍し、一万石を加増されましたので岡崎六万石となりました。水野家の次に松平康福が5万石で岡崎城主となり江戸幕府老中も務めますが、一代で転封。次に本多忠粛が5万石で岡崎城主となり明治維新まで六代続きます。この本多が本多平八郎忠勝の子孫であり、これを後本多と呼びます。五代忠民は江戸幕府老中を二度も務めています。大正七年から昭和五年まで、岡崎市第二代市長を務めた本多敏樹は、この旧岡崎藩主本多家の出身で、殿様市長と呼ばれていました。

撮影日  不明
撮影場所 康生町
投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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2013年01月05日

西三河の旗頭「石川家成」の碑

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岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)  

三河を平定した頃の徳川家臣団は、三備(みつぞなえ)といわれる軍制でした。東三河は酒井忠次、西三河は石川家成が旗頭となり、それぞれの地区の武将を統率し、もう一つが家康直属の旗本武将でここに本多忠勝・榊原康政・鳥居元忠・大久保忠世らが所属していました。東西三河の旗頭である酒井忠次と石川家成が、徳川家臣団の重臣であることが分かります、

石川家成の母親は、徳川家康の生母於大の姉なので、二人は従兄弟ということにもなります。三河一向一揆の際、石川一門は一向宗の信徒でしたので多くが一揆側に加担をしたのですが、家成は一揆の鎮圧に努力し徳川家臣団の結束を固め、西三河旗頭となりました。永禄十二年(1569)、掛川城開城で今川氏が滅ぶと掛川城主となり、甥の石川数正に西三河旗頭を譲りますが、徳川家老臣としてその後も家康の側に仕えました。家康の天下統一を見届けた後、享年76歳で病没しますが、その遺体は故郷である岡崎に運ばれ鴨田で荼毘にふされました。


旧亀山藩士有志が大正時代に建てた石川家成荼毘之碑。


石川家成の甥石川数正は、家康の長男信康が切腹した後に岡崎城代となりましたが、その後、豊臣方に出奔しました。また松本城を築いたことでも知られています。
石川家は、江戸時代中期に伊勢亀山藩の城主となり明治を迎えるまで統治しました。旧亀山藩士による碑建立はそのためでしょう。


撮影日  不明
撮影場所 鴨田町
投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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2013年01月04日

関山神社の石段をのぼる傘鉾巡行・生い茂る松並木と子どもの神輿



「藤川・関山神社の石段を登る傘鉾巡行の一行。傘鉾巡行は、東海道と吉良道の分岐点あたりで折り返した。この日は関山神社のお祭りで、子どもたちも神輿を担いで参加した。もちろん、私も神輿を担いだ。藤川西の踏み切りを越え、現在のレッドバロンのあたりまで練り歩いた。松並木は、今よりも高く、鬱蒼としていた。東海道は舗装されておらず、石ころが転がっていた。」


撮影日   昭和37年(1962年)
撮影場所  藤川・関山神社(藤川町東川向)
撮影・投稿 土井文男撮影・土井政美投稿

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2013年01月03日

百々城と青山氏 東京青山通りの由来

家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)  

百々町の七所神社、その北側山麓に中世の城である百々城が築かれていました。岡崎城を守る北の砦です。城主は青山氏でした。

元亀二年(1571)三月、三河に侵入した武田信玄の軍勢は、足助地方から岡崎城目指して突き進んできました。その時、百々城主青山忠門は、百々村に柵を築いて敵の侵入を食い止めました。さらに同四月、下山方面から攻め込んできた武田軍を真福寺村で迎え撃ち退散させました。しかし、この時の激戦で忠門は鉄砲で撃たれて負傷し、歩けなくなってしまいました。弟の俊成が駆け寄って背負い、引き揚げて治療をしたのですが、傷が深く戦死。遺言により百々村池ノ入の山林に葬られました。

武田信玄から岡崎城を守った百々城の青山氏は、その後家康から重く取り立てられます。家康が江戸に入ると、忠門の子忠成は、関東総奉行
・江戸町奉行となりました。さらに忠成の子忠俊は老中として三代将軍家光を補佐し、酒井忠清・土井利勝と「寛永の三輔」と言われました。この青山氏のお屋敷があったところが、今の東京青山通りです。忠成は徳川秀忠の守り役でもあります。江戸に行かずに百々村に残った忠門の弟俊成は、池ノ入山の湧水に因んで青山氏から清水氏に改姓し、代々百々村に住み続け現在に至っています。


青山忠門墓碑。亀の上に碑石を乗せる亀跌型。青山氏は後に丹波篠山城主となるので、篠山藩の青山忠高(忠門の子孫)が明和六年(1769)に建立しています。


百々町の清水家には、今も百々城の石垣が残っています。

撮影日  不明
撮影場所 井田町
投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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2013年01月02日

元和偃武

家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)





慶長二十年(1615)五月、大坂夏の陣で大坂城は落城し豊臣家は滅亡しました。その年の七月、改元が行われ元号が慶長から元和に変わりました。時の天皇は後水尾天皇。後に家康の孫和子と結婚することになる天皇です。この年の七月に、武家諸法度・禁中並公家中諸法度が相次いで制定されることで、徳川政権は安泰となりますので、これを元和偃武令と言います。

「元和」とは平和の始め。「偃武」とは武器をおさめて用いないこと。つまり戦争が収まった状態です。大坂の陣以後、徳川幕府による平和な時代が250年も続きましたので、この平和な状況を「元和偃武」と呼びます。外国の歴史学者は「パクス・トクガワーナ」(徳川の平和)と呼んでいるそうです。家康はこの元和偃武を見届けた後、翌年の元和二年四月十七日に駿府城で亡くなりました。

家康が生きた時代は、戦国動乱の時代でした。度重なる合戦に人々は苦しみ、それから解放されたいと強く願っていました。このような時代の要請に応えたのが徳川家康です。大樹寺の登誉上人から教えられた「厭離穢土 欣求浄土」や「元和偃武」、徳川家康が75年の生涯をかけて目指したものだと思います。

撮影日  不明
撮影場所 康生町
投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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2013年01月01日

家康公遺訓と家康公遺言

あけましておめでとうございます。
昨年は「岡崎いいとこ風景ブログ」に、たくさんの御投稿をいただきありがとうございました。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。


家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)


岡崎城の前には家康公の遺訓碑と遺言碑が並んで建っています。家康公遺訓がよく知られているのに比べ、家康公遺言はあまり知られていません。自分の死が迫る中、息子の二代将軍秀忠に残した言葉です。

「家康公遺言」
わが命旦夕に迫るといへども将軍斯くおはしませば天下のこと心安し
されども将軍の政道その理にかなはず 億兆の民艱難することもあらんには たれにても其の任に変らるべし
天下は一人の天下に非ず天下は天下の天下なり たとへ他人天下の政勢をとりたりとも四海安穏にして万人その仁恵を蒙らばもとより 家康が本意にしていささかも うらみに思ふことなし

江戸幕府を開き、豊臣に代わる徳川政権を樹立した家康が、自分の後継ぎに残した言葉です。将軍の政道が理に適わず民が苦労しているようならば、政権は他に移るべきである。政権が他家に移っても民が幸せならば、家康の本意であり恨みに思うことはない。家康は儒学を学んでいますが、儒学に見られる思想だと思います。徳が衰えて民心が離反するようになれば、天命は革まり別の有徳者が天命を授ける。易姓革命。

撮影日  不明
撮影場所 康生町
投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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2012年12月31日

徳川四天王「榊原康政」

家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)


榊原康政は、知勇兼備の武将として葵武将隊でも登場しますが、家康家臣団の中で学問のある武将と知られています。では榊原康政はどこで勉強をしたのでしょうか。それは大樹寺だと言われています。康政は今の豊田市上郷町にある上野城で生まれましたが、祖父の代から松平家の譜代家臣でしたので、松平家の菩提寺大樹寺で学問に励んでいました。その後、家康に見出されて16歳の時、三河一向一揆で初陣を飾りました。その時の功績により家康から「康」の一字を賜りました。知勇兼備と言われた榊原康政の名をもっとも世に広めたのが小牧・長久手の戦いです。この時、康政が書いた檄文が有名です。織田信長の次男信雄と徳川家康の連合軍が豊臣秀吉と戦うのが小牧・長久手の戦いですが、この時、榊原康政は、「農民の子に過ぎない秀吉は、信長に寵愛されて武将となり大国を与えられたくせに、信長亡き後、主恩を忘れて信長の次男信雄と戦おうとしている不忠義者だ」と檄文を書き、秀吉討つべしと訴えたのです。これを読んだ秀吉は激怒して、康政の首に十万石の懸賞をかけました。秀吉を激怒させた作文の技は、大樹寺で身に付けたものなのでしょう。

撮影日  不明
撮影場所 鴨田町
投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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2012年12月30日

徳川四天王「酒井忠次」

家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)

酒井忠次は徳川四天王の筆頭です。他の三人が家康より若いのに比べて、酒井忠次は家康よりも15歳年長で、家康の家老と言える立場の人です。家康の父広忠の妹を嫁にもらっていますから、家康の叔父でもあります。家康が三河統一を進める際に今川方の吉田城(豊橋)を攻め、その後、吉田城主となってからは東三河の武将たちの旗頭となりました。三方ケ原の戦いでは浜松城で太鼓を打ち続けた「酒井の太鼓」の逸話や長篠の戦いでは鳶巣砦の奇襲攻撃が有名です。


この酒井忠次の生誕地は井田城。今、井田学区に城山公園というのがありますが、岡崎城と大樹寺を結ぶ台地上にある公園で、井田城址でうす。この酒井氏の菩提寺が大樹寺保育園の裏にある回向院。この回向院は元来、大樹寺の境内にあった塔頭です。(昔は大樹寺小学校も大樹寺保育園も回向院もみんな大樹寺の境内です。)大樹寺が主君松平家(徳川家)の菩提寺で、松平家の家老酒井家はその塔頭を菩提寺としていました。大樹寺に松平家八代の墓があるように、回向院には酒井家六代の墓が並んでいます。

撮影日  不明
撮影場所 井田町、鴨田町
投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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