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2012年04月03日

岡崎市内の「歴史的景観」の維持のために:その2

愛知教育大学名誉教授(岡崎市文化財保護審議会会長)の新行紀一先生による「岡崎市内の「歴史的景観」の維持のために」と題したレポートを掲載します。

印刷は、こちらから
平成21年度に市の行政アドバイリー制度を活用して先生にご助言をいただいたものです。

岡崎市内の「歴史的景観」の維持のために:その2
2 大樹寺から岡崎城を望む眺望が成立する自然条件は比較的単純である。乙川以北の矢作川左岸の市域において、最も西へ張り出した台地には岡崎城が立地し、ついで西へ張り出しているのが大樹寺のある鴨田の台地である。その間の低地は、昭和40年代前半までは一面の田であったことは、50歳代以上の市民の記憶に残るところである。もっともこの地形が大樹寺や岡崎城の建立以前から存在したわけではない。

大樹寺は文明7年(1475)に松平親忠(信光三男、安城家初代)が、浄土宗の勢誉愚底を開山として創建した寺である。もとは親忠の屋敷であったようで、同時代史料での寺名の初出は文明17年(1485)である。これに対し、岡崎城の出現は相当に遅れる。江戸時代以来の伝承では、岡崎城は享徳元年(1452)に西郷弾正左衛門稠頼(頼嗣とも)が築城したとされてきた。その城へ大永4年(1524)頃に松平清康が安城から移ってきたというのである。この岡崎城が江戸時代の竜頭山の城であれば、ビスタラインの原型はこの時に成立したことになるが、決してそうではなかった。

西郷氏が築いた岡崎城は明大寺にあった。大永7年(1527)に東海道を下った連歌師宗長は、矢作川を渡って明大寺に着いたが、松平清康の城があると記している。現在の東岡崎駅東北の市営駐車場附近にあったようである。それが竜頭山に移るのは享禄4年(1531)のことで、それによって大樹寺と岡崎城の位置取りはできたが、これでビスタラインが成立するわけではない。甲山から西に連なる天神山に遮られて、南北間の見通しは不可能であったと思われる。

岡崎市内の「歴史的景観」の維持のために:その2
天正18年(1590)に小田原北条氏が滅亡したあと、徳川家康は関東に移封され、岡崎城には豊臣大名の田中吉政が入部した。吉政は、岡崎城と城下町の大改修工事を行い、近世岡崎の原型を作り出した。その一環として天神山が削平され、材木町や田町が造成された。これによってビスタラインの自然的条件は整った。吉政は最初の岡崎城天守閣を建造したとみられるので、ビスタラインの眺望が関ヶ原合戦以前に出現したかもしれないが、吉政には徳川家菩提寺大樹寺に対する特別の思い入れがあったとは思われず、眺望は偶然的に形成されたとみるべきであろう。

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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30│Comments(0)景観学習
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