2012年12月29日
徳川四天王「本多平八郎忠勝」
家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)
三河武士団で最初に名を挙げるべき武将と言えばやはりこの人でしょう。岡崎公園「三河武士の館」の前にある銅像も本多忠勝、龍城神社に祭られているのも本多忠勝、甲山中学校の校章も本多忠勝の兜をデザインしています。岡崎城の殿様になったのも本多忠勝の子孫、東公園に復原された旧本多忠次邸も本多忠勝のお屋敷です。
家康が江戸城に入ると忠勝は今の千葉県大多喜の城主となります。江戸城を守る要地です。関ヶ原合戦後、今の三重県桑名の城主となり、そこで病没しています。その後、本多家は転封を重ね、明和六年(1769)子孫が岡崎城に入り、岡崎城主となりました。
忠勝の祖父は本多忠豊、父は本多忠高。どちらも主君松平家のために若くして戦死しています。しかし忠勝は、50回を超す戦闘で、かすり傷一つ負わなかった不死身の武将です。長さ3メートル以上といわれる自慢の長槍「蜻蛉切り」(槍先に蜻蛉がとまると、はらりと蜻蛉が切れてしまったという切れ味の槍)を振り回して敵陣に切り込んでいきます。その姿を見て武田軍から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と称賛されました。つまり唐から輸入した立派な帽子と本多平八郎という武将は家康には過ぎたものであるということです。
本多平八郎忠勝の生誕地は岩津学区の西蔵前町にあります。青木橋を渡ってすぐのところに石碑が立っています。
撮影日 不明
撮影場所 康生町
投稿者 大樹寺小学校・都市計画課
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岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)
三河武士団で最初に名を挙げるべき武将と言えばやはりこの人でしょう。岡崎公園「三河武士の館」の前にある銅像も本多忠勝、龍城神社に祭られているのも本多忠勝、甲山中学校の校章も本多忠勝の兜をデザインしています。岡崎城の殿様になったのも本多忠勝の子孫、東公園に復原された旧本多忠次邸も本多忠勝のお屋敷です。
家康が江戸城に入ると忠勝は今の千葉県大多喜の城主となります。江戸城を守る要地です。関ヶ原合戦後、今の三重県桑名の城主となり、そこで病没しています。その後、本多家は転封を重ね、明和六年(1769)子孫が岡崎城に入り、岡崎城主となりました。
忠勝の祖父は本多忠豊、父は本多忠高。どちらも主君松平家のために若くして戦死しています。しかし忠勝は、50回を超す戦闘で、かすり傷一つ負わなかった不死身の武将です。長さ3メートル以上といわれる自慢の長槍「蜻蛉切り」(槍先に蜻蛉がとまると、はらりと蜻蛉が切れてしまったという切れ味の槍)を振り回して敵陣に切り込んでいきます。その姿を見て武田軍から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と称賛されました。つまり唐から輸入した立派な帽子と本多平八郎という武将は家康には過ぎたものであるということです。
本多平八郎忠勝の生誕地は岩津学区の西蔵前町にあります。青木橋を渡ってすぐのところに石碑が立っています。
撮影日 不明
撮影場所 康生町
投稿者 大樹寺小学校・都市計画課
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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30│Comments(0)
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