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2009年12月04日

景観を読み解く017

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大樹寺から岡崎城を望む歴史的眺望(ビスタライン)。
岡崎市都市計画課では、大樹寺三門前に眺望点を定め、そこから南の総門の中央に岡崎城を望む眺望景観の保全を検討中ですが、三門前からでなくても、本堂近くでしゃがめば、三門、総門と2つの門を通して岡崎城を望むことができます。

しかし、本堂を背にして参道の左寄りでないと(最上段写真)・・・総門の中央に城を望むことができません。
何故なんでしょう?

ここからは仮定の話で、今のところ2つの説が考えられます。(まったくの私案であり、確証なし)
 
その1
本堂、三門、総門、岡崎城と軸線を一直線にそろえてこそのビスタラインではあるが、お寺のご本尊様が門に正対することは避けるのが一般的で、大樹寺もそれにならっているため。

その2
手水舎が本堂に向かって左側にあること(2番目写真)、また、武士は帯刀のため、左側通行が常で(右側だと通行上、刀同士があたり、いさかいとなる)あることから、大樹寺は左側参拝であったと推測され、本堂に参った後は岡崎城に向かって左側を通行しながら三門、総門越しに城が中央に眺望できるよう配置されたもの。しかも視点高さは当時の家康や家光将軍の身長からもわかるとおり、一般的な平均身長である、おおよそ150〜160センチ程度で見えるような設計と考えられる。徳川政権時代、神聖視された岡崎城を眺望する、または菩提寺である大樹寺に詣るというのは、忠誠や権威付けに非常に大きな役割を果たしたと推測される。大樹寺に詣った後も門越しに岡崎城が象徴的に配され、なお徳川の権威が高まる演出効果があったと推測される。

以上のように何故、左寄り?ということの仮説です。

それにしても江戸時代の都市デザインは、このようにとても粋でセンスが良く、考えられているなとあらためて感銘を受けました。
いまなお、この景色が守り継がれている「おかざき」。風格ある都市づくりには欠かせない眺望景観のひとつです。

撮  影  日  平成21年11月
撮 影 場 所  鴨田町/地図
投  稿  者   キノシタ

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岡崎城ビスタライン探訪 [城日記]



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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30│Comments(2)景観学習
この記事へのコメント
その1は本で読んだ事もありすんなり理解です。その2については確かに六所神社、伊賀八幡宮、岩津天神は手水舎が参道から歩いていくと右側にありますよね。当家のご先祖様をお祭りしているお寺も本殿に向かって右側です。

>武士は帯刀のため左側通行が常で(右側だと通行上、刀同士があたり、いさかいとなる)

権力者の菩提寺であり、歴代当主の墓や歴代将軍の位牌が安置されているとなるとやはり武士の詣でが多いと予想され左側通行・・・・なるほど、なるほど さすがキノシタさん景観を読み解きましたね。
Posted by シモン at 2009年12月05日 00:29
シモンさん、おはようございます。
ビスタラインの見え方については、仮説の域を出ませんが、当時のデザイナーのセンスにはただただ感銘を受けるばかりです。

現地で検証されると、その壮大な都市の計画に

心うたれます。。。
Posted by キノシタ at 2009年12月05日 08:45
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    コメント(2)