2010年05月26日
自然と歴史を育むまち本宿
郷土史本宿研究会のご協力により、本宿地区の東海道ルネッサンス事業案内板が新しくなりました。
【以下案内板説明文】
村の移り変わり
本宿は、東西三河の接する地であり、往古は駅家郷(うまやのごう)、山中郷に属し、奈良古道、鎌倉街道沿いの要地として、中世以降は法蔵寺とともに発展した。慶長6年(1601)東海道伝馬の制により、往還筋に当たる本宿村も並木松、一里塚、立場茶屋と逐次整備がなされ、藤川宿、赤坂宿の間の村としての機能的役割を果たしてきた。江戸中期以降、年々人と物の往来や流通が盛んになり、宿駅の人馬では対応できず、幕府はこれを解決するため、明暦年間以降、助郷の制を定めた。これにより本宿は赤坂宿の助郷村として明治初年に至るまで人馬を提供した。
享和2年(1802)本宿村方明細上帳には次のように記している。「村高457石余、村内往還通19丁余、幅2間半から3間半、一里塚南北とも榎、往還掃除丁場分担村及び間数、助郷宿、並木松間数、家居間数、立場茶屋2箇所、家数柴田知行所82、法蔵寺領39、名物早縄、餅団子、草鞋(わらじ)、その他」とあり、当時の村況を詳細に知ることができる。
行政の変遷は江戸初期は幕領と法蔵寺領、元禄以降は幕領に代わる旗本柴田氏との相給(あいきゅう)の村となり、以後明治に至る。明治初期は三河県の管轄、次いで静岡藩(県)、額田県と移り、同5年愛知県、同11年本宿村戸長役場、同22年市町村施行に基づき、愛知県額田郡本宿村大字本宿となる。昭和30年(1955)岡崎市本宿町となる。
大正15年(1926)愛知電鉄(現名鉄)が開通した。それにともない本宿駅が新設され、本宿はこの地域の交通の拠点となった。反面かつての立場茶屋で賑わった法蔵寺以東はしだいにさびれ、駅前を中心に町が形成された。
表の道として、多様な役割を担ってきた東海道も、鉄道、バスの出現により往時の面影を失っていった。
その後、東海道に代わる国道1号は大動脈としての役割を担ってきた。平成6年、国道1号の拡幅工事が完了する。これを機に道とともに歩み、道とともに築き上げた本宿の歴史と文化、それを取り巻く豊かな自然環境に目を向け、新しい時代に対応する活力ある町本宿の出発点にと、この事業を計画推進したのである。
(1994年9月 国道1号本宿地区東海道ルネッサンス事業委員会・郷土史本宿研究会)
撮 影 日 平成22年4月
撮 影 場 所 本宿町/地図
投 稿 者 都市計画課
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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30│Comments(0)
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