2010年07月04日
藤川地区-薬師山(やくしやま)
藤川宿の中ほど南側に、こんもりとお椀を伏せたような形のよい山があります。これを地元の人たちは「薬師山」と呼んでいます。むかし、この山の中腹に薬師堂があって、宿場の人々から「お薬師さん」と親しまれ、何時とはなしに、この山を「薬師山」と呼ぶようになりました。
むかしの話です。藤川宿は江戸時代になって宿場町となると同時に活況を呈してきましたが、寛文8年(1668)、加宿市場村の火災をはじめ三度の火災に見舞われ、それに輪をかけるように安永元年(1772)6月、この地方は大風雨となり、大水に襲われました。そんなとき、折あしく藤川宿では疫病が流行し、約400人余が死亡して、とうとう空き家が45軒に及び、宿場内は沈滞しきってしまいました。
これだけの被害を受けると、宿場の経営は難しくなり、時の問屋(とんや=問屋場の役人)は、宿場内の称名寺の住職に相談して、使者の冥福を祈るとともに、神仏の加護を祈念するため、衆生(しゅじょう=人々)の病患を救い、災難を除くという薬師如来を勧請して祀ることにし、宿場の町並みの南の裏山に堂を建てました。これが「薬師堂」で、当時は本陣前の街道筋から、民家の間に細い道がついていて、薬師堂に至ることができました。宿場の人々は苦い経験があるため、お薬師さんへの信仰は厚く、やがてみんなでお参りする講仲間もでき、人々が手向ける香華は絶えることはありませんでした。
しかし、明治6年(1873)8月、江戸の相撲取りであった「江戸ケ嵜」の追善相撲が称名寺の境内で行われた夜、薬師堂が火災にあい、追善興行をしていた力士たちも駆けつけて消火に当たりましたが堂舎は燃え、本尊も失ってしまいました。人々は再建を願い、今度は火災でも焼けない石で刻んだ薬師如来像と新しい堂舎を造り祀りました。その後、堂舎は再び老朽化して廃堂となりましたが、本尊の薬師像は称名寺本堂内に移し、向かって右脇壇に安置されています。藤川の人々は薬師様は移っても、今でもこの山を「薬師山」と呼んで親しんでいます。
「薬師山」は東海道藤川宿の町並みの中央辺り中町南側にあり、高さ約100メートルほどのこんもりとお椀を伏せたような山である。
【藤川宿散策のしおり/藤川宿まちづくり研究会】
撮 影 日 平成22年6月
撮 影 場 所 藤川町/地図
投 稿 者 キノシタ
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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30│Comments(0)
│歴史の風景