2016年10月22日

外堀が囲んだ城郭を想像する甲山からの眺望 @岡崎百景




地図はこちら↓
https://www.google.com/maps/d/viewer?hl=ja&authuser=0&mid=1jGsAOUBvdzMAT0MVQ1fPHRj1Qa0

この他の岡崎百景についてはこちら ↓
http://www.city.okazaki.lg.jp/1550/1567/1637/p020569.html


投稿者   都市計画課


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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 16:30Comments(0)岡崎百景

2013年06月05日

岡崎・高みの風景(その5) & 産業

水道週間にちなんで、六供配水場が二日間一般公開されました。この機会を逃さず、配水塔上からの360度の眺めを楽しみました。以前は浄水場であったこの設備は、昭和9年の建設で今も現役の配水設備ですが、80年近くが経過し産業遺産とも認められます。


最初の写真は、特徴ある形状で有名な配水塔の全景です。左手の建屋がポンプ室です。配水塔の高さは、資料によれば避雷針支持部まで20.2mです(ドーム屋根までは14.6mとの説明も聞きました)。配水塔のドーム屋根の上には、正面に見える縦長の階段室を登って行けます。



配水場の標高が50~60m程度ですので、配水塔上(ドーム屋根上)からは約70mの高みからの市内パノラマを楽しむことができました。二枚目の写真は南の方向を眺めた風景で、中央に存在感を示すのは甲山(カブトヤマ)の樹林です。この写真の右の方向を拡大撮影したのが三枚目。高層ビルの間(写真のほぼ中央)に岡崎城の天守閣が僅かに望めます。


塔上から北の方を眺めたら、足元の配水場敷地内に不思議な造形を見て思わずシャッターを切りました。芝生が植えられた四角い地面に青色の筒状のものが整然と並べられています。係の方に聞いたところ、この地面(35m×35m)の下は貯水槽で青色筒は空気抜きの装置とのことでした。

撮影日  平成25年6月1日、2日
撮影場所 六供(ロック)町
投稿者  岡崎エクスプローラー

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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(0)くらしの風景

2013年04月30日

岡崎・高みの風景(その4)

高みからの風景、今回は竜美ヶ丘(タツミガオカ)公園展望台からの景色です。当ブログでは、キノシタさんが3年前に一度紹介されてます。最近は展望台周りの木々の一部が切り払われ、広角な眺望が楽しめます。


竜美ヶ丘公園登り口(東側)の情景です。この時期、公園の木々の新緑が眼に鮮やかです。


展望台近くに野鳥を紹介する大きな看板がありました。
鳥の写真も美しく、また、市の鳥ハクセキレイ始め種類の多さに驚かされます。この公園は、別名「野鳥の森公園」とも呼ばれるそうです。


道を少し登った丘の頂上に、モダンなデザインの展望台があります。建設碑によれば、展望台は昭和56年(1981)に建設され、標高は76.7mとのことです。


展望台から南の方向を見た風景。手前の建物は、市立竜美丘小学校の校舎です。


展望台から見た東側の眺望。丘陵が市街地に迫る地勢で、丘陵の中ほどに目を凝らすと中央総合公園の体育館の屋根が見えます。


展望台の北の方角を眺めた風景です。手前の茶色の建物は、近くにある自然科学研究機構の岡崎統合バイオサイエンスセンターの研究建屋です。そして、左手遠くには甲山の樹林や六供配水場の円筒形建物が点のように見えます。

撮影日  平成25年4月27日
撮影場所 竜美東1丁目
投稿者  岡崎エクスプローラー


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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(0)くらしの風景

2013年03月28日

通り名のある風景(市民会館通り)

ひさびさの「通り名のある風景」シリーズ、今回は市民会館通りです。この通りの名前は、昭和59年(1984)市内の通りに名前を付ける運動の中で命名されました。
六供配水場のそばから、アップダウンを繰り返して南下し、籠田公園西側まで1km弱の通りです。


この通りの北の起点となる標識がこの写真です。すぐそばに、六供配水場の特徴ある塔が見えます。通りはここから南にかなり急な坂を下り、そのあと甲山(カブトヤマ)の裾を登ります。



少し行くとこの通りの名前の由来となる市民会館があります。2枚目の写真は、市民会館の北辺にある通りの標識で、左に見える繁みは甲山焼(コウザンヤキ)窯跡です。
3枚目の写真は、市民会館の南辺から通りを北に向って見た風景で、坂道が登っているのが分かります。左手の樹林は甲山で、この中に甲山(コウザン)寺や甲山八幡宮があります。


市民会館の庭には、"鋼鉄の父"本多光太郎博士の銅像があります。博士はよく知られているように、市内新堀町(ニイボリチョウ)の出身です。銅像の脇には経歴と共に、母校の子供達に贈った「つとめて やむな」の言葉の説明書きがありました。この言葉は、出身校の矢作南小学校の校訓となっています。


最後の写真は、通りの南の起点付近の風景です。奥に見えるのが籠田公園で、通りはこの少し南(右手方向)で
東康生通りと交差し、そこが終点です。

市民会館通りは起伏に富んで面白く、道路沿いにいろんな歴史や自然があり、車の交通量もそれほど多くなく散歩していて楽しい通りです。

撮影日  平成25年3月8日
撮影場所 六供町、籠田町
投稿者  岡崎エクスプローラー

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2013年03月14日

岡崎・高みの風景(その2)

前回(岡崎城天守閣からの風景)に引き続き、今回は六供町の高みからの風景です。
岡崎の中心市街地のすぐ北に小高い丘、甲山(カブトヤマ)があります。ここから見る岡崎の風景はどんなでしょうか。


まず甲山の外観を紹介します。最初の写真は、矢作川左岸越しに甲山を見た風景です。こんもりした甲山の樹木と、左の方に六供浄水場(現在は配水場とよぶ)の特徴的な塔の姿も見えます。


甲山の標高は約64m。この程度であっても、平地が広がる南や西の方向には眺望が開けます。写真は、甲山から南西方向を見た風景で、高層ビルに隠れて見えませんがこの方向に岡崎城があります。


甲山は岡崎城から見て北東(鬼門)の方角にあたり、本ブログでもこれまで紹介されているように、その麓や中腹には鬼門守護のため甲山(コウザン)寺や甲山(カブトヤマ)八幡宮があります。いずれも古い歴史をもつ寺社です。写真は甲山寺(額にある「長輝山」は山号)で、この時期梅の花がよく似合います。

撮影日  平成25年3月7、8日
撮影場所 六供町、他
投稿者  岡崎エクスプローラー

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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(0)眺望の風景

2012年12月29日

徳川四天王「本多平八郎忠勝」

家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)


三河武士団で最初に名を挙げるべき武将と言えばやはりこの人でしょう。岡崎公園「三河武士の館」の前にある銅像も本多忠勝、龍城神社に祭られているのも本多忠勝、甲山中学校の校章も本多忠勝の兜をデザインしています。岡崎城の殿様になったのも本多忠勝の子孫、東公園に復原された旧本多忠次邸も本多忠勝のお屋敷です。

家康が江戸城に入ると忠勝は今の千葉県大多喜の城主となります。江戸城を守る要地です。関ヶ原合戦後、今の三重県桑名の城主となり、そこで病没しています。その後、本多家は転封を重ね、明和六年(1769)子孫が岡崎城に入り、岡崎城主となりました。

忠勝の祖父は本多忠豊、父は本多忠高。どちらも主君松平家のために若くして戦死しています。しかし忠勝は、50回を超す戦闘で、かすり傷一つ負わなかった不死身の武将です。長さ3メートル以上といわれる自慢の長槍「蜻蛉切り」(槍先に蜻蛉がとまると、はらりと蜻蛉が切れてしまったという切れ味の槍)を振り回して敵陣に切り込んでいきます。その姿を見て武田軍から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と称賛されました。つまり唐から輸入した立派な帽子と本多平八郎という武将は家康には過ぎたものであるということです。


本多平八郎忠勝の生誕地は岩津学区の西蔵前町にあります。青木橋を渡ってすぐのところに石碑が立っています。

撮影日  不明
撮影場所 康生町
投稿者  大樹寺小学校・都市計画課

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2012年11月29日

六供浄水場から見た風景のうつりかわり~昭和から平成へ~


【昭和20年代ごろ】


【平成20年ごろ】
愛宕小学校に眠っていた古写真浄水場から見た昭和20年代ごろの風景を愛宕学区社会教育委員会 愛宕夢のまちプロジェクト委員会のメンバーで六供浄水場(※現在は六供配水場に名称変更)配水塔の上から約50年以上前の風景と見比べて
現在(平成20年ごろ)を定点で撮影したものです。方向は南西方向 甲山を中心としたまちの移り変わりが見て取れます。


撮影日  不明
撮影場所 六供町
投稿者  愛宕夢のまちプロジェクト委員会 野村

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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(0)眺望の風景

2012年05月23日

甲山焼窯跡

<都市計画課からのお知らせ>
「景観審議会委員を募集しています!」
内容 会議に出席し、意見を述べる。任期2年。報酬有。
対象 市内に1年以上住んでいる20歳以上のかた(他の審議会委員との重複は2つまで)
定員 2人程度
申込 履歴書と小論文「岡崎あ市の景観の課題とこれからのあり方(400~800字)」
都市計画課(西庁舎1階)へ提出(郵送可。〒444-8601)6月1日(金)必着

甲山の辺りは、縄文遺跡や古墳群、岡崎城の鬼門を守る甲山寺と甲山八幡宮、甲山焼窯跡など見所が多くあります。
今回はその中から甲山焼窯跡について紹介したいと思います。

市民会館のすぐ北側に甲山焼窯跡の碑が建っており、甲山焼について以下のとおり書かれています。

「甲山焼は明治6年、岡崎に新しい産業をと願う一部の市民の熱意が生んだ陶磁器である。京都より焼きものの名人永楽和全(パリ万博への出品や九谷焼の改良等で活躍)を師として招き、製陶が開始された。岡崎で3年を過ごした和全が全てを弟子に託し帰京したのちも、弟子達による製陶が続けられ、多くの作品が世に出るが、岡崎周辺に良質な陶土が無かった事や種々の事情で明治35年、遂に廃窯に至る。しかしその後も甲山焼はこれを愛する人々の手で守られ、又、甲山焼を下敷きとする新しい作品も生まれて来ているのである。」

現在窯はありませんが、手前に見える四角い枠のところにかつてあったようです。

わずか数十年という短い間でしたが、明治維新時の殖産興業の中誕生した甲山焼は一筋の光跡を残したといえるでしょう。

撮影日  平成24年5月1日
撮影場所 六供町
投稿者  SUZUKI

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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(0)産業の風景

2012年04月03日

岡崎市内の「歴史的景観」の維持のために:その2

愛知教育大学名誉教授(岡崎市文化財保護審議会会長)の新行紀一先生による「岡崎市内の「歴史的景観」の維持のために」と題したレポートを掲載します。

印刷は、こちらから
平成21年度に市の行政アドバイリー制度を活用して先生にご助言をいただいたものです。


2 大樹寺から岡崎城を望む眺望が成立する自然条件は比較的単純である。乙川以北の矢作川左岸の市域において、最も西へ張り出した台地には岡崎城が立地し、ついで西へ張り出しているのが大樹寺のある鴨田の台地である。その間の低地は、昭和40年代前半までは一面の田であったことは、50歳代以上の市民の記憶に残るところである。もっともこの地形が大樹寺や岡崎城の建立以前から存在したわけではない。

大樹寺は文明7年(1475)に松平親忠(信光三男、安城家初代)が、浄土宗の勢誉愚底を開山として創建した寺である。もとは親忠の屋敷であったようで、同時代史料での寺名の初出は文明17年(1485)である。これに対し、岡崎城の出現は相当に遅れる。江戸時代以来の伝承では、岡崎城は享徳元年(1452)に西郷弾正左衛門稠頼(頼嗣とも)が築城したとされてきた。その城へ大永4年(1524)頃に松平清康が安城から移ってきたというのである。この岡崎城が江戸時代の竜頭山の城であれば、ビスタラインの原型はこの時に成立したことになるが、決してそうではなかった。

西郷氏が築いた岡崎城は明大寺にあった。大永7年(1527)に東海道を下った連歌師宗長は、矢作川を渡って明大寺に着いたが、松平清康の城があると記している。現在の東岡崎駅東北の市営駐車場附近にあったようである。それが竜頭山に移るのは享禄4年(1531)のことで、それによって大樹寺と岡崎城の位置取りはできたが、これでビスタラインが成立するわけではない。甲山から西に連なる天神山に遮られて、南北間の見通しは不可能であったと思われる。


天正18年(1590)に小田原北条氏が滅亡したあと、徳川家康は関東に移封され、岡崎城には豊臣大名の田中吉政が入部した。吉政は、岡崎城と城下町の大改修工事を行い、近世岡崎の原型を作り出した。その一環として天神山が削平され、材木町や田町が造成された。これによってビスタラインの自然的条件は整った。吉政は最初の岡崎城天守閣を建造したとみられるので、ビスタラインの眺望が関ヶ原合戦以前に出現したかもしれないが、吉政には徳川家菩提寺大樹寺に対する特別の思い入れがあったとは思われず、眺望は偶然的に形成されたとみるべきであろう。

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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(0)景観学習

2011年03月18日

甲山のときを告げるサイレン塔

豊かな自然景観・歴史文化に彩られた名所旧跡・商店街や住宅地などの人の営み…少し目を凝らしてみれば、普段あまり気に留めることもなく知らずにいた愛宕学区の姿を改めて発見できるものです。「人」「もの」「自然」「歴史文化」…それらが混ざり合って「まち」の姿が形作られてゆきます。見渡してみれば、愛宕学区は美しい自然と文化に恵まれ人の温かさに包まれた住みやすいまちであることが判ります。
時とともに開発が進み、まちの姿は変わってゆきます。ですが残すべき大切なものもあります。自分の住むまち、そこで一緒に暮らす人々、それらを大切にしてゆきたいという思い…そんな「地域力」が、これからの時代にますます必要とされてゆくことでしょう。


【旧三角点の石碑と塔の跡地】
岡崎市のほぼ中心に位置する甲山(かぶとやま)は、そのむかし、日本武尊が夢のお告げに従い悪者の甲首を3つの岩のあるところ(六供町三ツ岩)に埋めたことから、こう呼ばれるようになったそうです。今では中心市街地にありながら小鳥のさえずりが聞こえる、自然豊かな岡崎を象徴する山です。「ふるさとの森」にも指定され、愛宕学区に住む私たちの和みの場所でもあります。また、この山には5世紀初め頃に岡崎市内最古の豪族の墓である甲山1号墳が築かれ、現在は甲山公園として整備されています。


【たつきの塔】
甲山の山頂には、かつて朝夕夜の時を告げていたサイレン塔が存在しました。岡崎市中心部のシンボルタワーとして1961年(昭和36年)に建てられ、「たつきの塔」と呼ばれていました。塔の上部には東西南北に向けたスピーカーが設置され、朝6時に「草競馬」、夕方6時に「夕焼け小焼け」、夜10時に学校と同じチャイムの音色が鳴り、岡崎市民にときを知らせていました。昭和60年代に入ってからは老朽化で音色が聞けなくなり、平成10年代に塔全体が取り壊されてしまいました。


【国土地理院の二等三角点】
現在、山頂の塔があった地点に国土地理院の二等三角点があります。少し離れた場所には、旧岡崎町三角点NO.12と書かれた石碑も存在しています。遠い昔に聞いた音色はいまでも心の中に響いています。それは、懐かしい郷愁のメロディーでした。

撮 影 場 所  六供町/地図
投  稿  者   野村@あたご夢のまちプロジェクト委員会

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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30Comments(2)歴史の風景

2010年07月16日

稲前神社



【現地案内説明板】
その昔、岡崎は伊勢神宮の神領であったとされ、稲前神社には、神宮に奉納する稲を入れる倉があったといわれます。このことから推測すると、岡崎で最も古い神社ということになります。
記録によると、もと岡崎城の地にあり、総持寺(そうじじ)を再興するに際し、材木町に移され、更に、岡崎城城郭の拡張に伴い、現在の場所に移されたといいます。

【岡崎市史抜粋】
訓みについては、「いなくま」「いなさき」 の二つがある。鎌倉時代末期頃成立の「滝山寺縁起」に「稲熊ノ三ツ石」を平安時代後期に寺領の境界としたとあり、「三ツ石」は甲山にある。

撮  影  日  平成22年5月
撮 影 場 所  稲熊町/地図
投  稿  者  キノシタ

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2010年07月11日

甲山(かぶとやま)の森


縄文遺跡や古墳群があることから、古くから開けた地であることがわかります。岡崎城の鬼門を守る甲山(こうざん)寺と甲山(かぶとやま)八幡宮、岡崎永楽で有名な甲山焼窯跡(こうざんやきかまあと)など、見どころは豊富です。市街地に隣接した野鳥の飛び交う森として、貴重な場所になっています。(下記撮影場所をクリックして、航空写真を選択すると緑の丘陵地であることが分かります。)

撮  影  日  平成22年6月
撮 影 場 所  六供町/地図
投  稿  者  キノシタ

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2010年03月07日

甲山(かぶとやま)



岡崎は「坂の多いまち」でもあり、地形の起伏が景観に奥行きを与えています。そして、市街地の丘陵地は、まちの背景となる緑を形成する要素でもあります。そんな丘陵地は実は単なる緑ではなく、古代からの歴史の地であったりもします。

そのうちのひとつを紹介します。

「史跡 甲山第一号墳」

この古墳は、古墳時代前期末から中期初頭にかけて築造された市内における出現期の古墳である。標高64.5メートルの甲山と呼ばれる独立丘陵の頂部に位置する。南側には陪塚(ばいちょう)と考えられる甲山第二号墳がある。墳丘の崩れが各所にあるものの直径役60メートル、高さ約8メートルの大型円墳と推定される。

墳丘には、拳大の円礫で葺石が葺かれている。墳丘裾と中段付近では円筒埴輪・朝顔埴輪が出土している。戦時中、墳丘中段から墳頂にかけて防空壕を掘削したときに、鉄刀一振と多量の木炭が出土しており、埋葬施設は木炭槨(もくたんかく)であったと推定される。

昭和47年7月5日岡崎市指定文化財

古墳時代、想像もつかないほど、はるか昔から、この地は地形的に独立した丘陵で、眺めよく、「聖地」であったのでしょう。時代がかわっても、岡崎城の鬼門守護となるなど、そのパワーは底知れませんね。

撮  影  日  平成22年3月
撮 影 場 所  六供町/地図
投  稿  者  キノシタ

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2010年02月27日

甲山閣




「甲山閣」は純和風の建物で、お茶会、囲碁、将棋、俳句、短歌、各種会合、勉強会に利用できる市の施設。
ほんの少し小高いだけなのに、このあたりからの南や西方面の眺望はとてもすがすがしい。

三河平野と三河山地の接する地、岡崎。

西の名古屋方面へ向けて広がる市街地(平野部)を眼下に望むと、今一度「地形」というものを意識させられます。

撮  影  日  平成22年2月
撮 影 場 所  六供町/地図
投  稿  者  キノシタ

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2010年02月25日

岡崎城鬼門守護の甲山寺




鬼門」とは、北東の方位のことで、陰陽道において、鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角とされています。岡崎城鬼門守護の甲山寺は、大同3年(808)伝教大師最澄上人が安城の地に創建。享禄3年(1530)松平清康公(徳川家康公の祖父)岡崎城に入城の折、日本武尊の由緒もあり、岡崎城の鬼門にもあたるこの地に鬼門守護として、安城の薬師堂並びに六坊を移転建立したものが甲山寺である。以来甲山寺は徳川幕府及び代々の岡崎城主の祈願寺として尊崇される。天文13年(1544)に松平広忠が和田村法性寺の六坊を移転、護摩堂を建て総本堂とし一山十二坊の寺院となった。慶長8年(1603)徳川家康公が本堂を再建、朱印地250石を寄進した。現本堂は元禄15年(1702)〜16年に五代将軍綱吉の命により再建されたものである。

岡崎城の鬼門を守護する「甲山寺」。

なにげない、くらしのなかに息づくお寺の景観ですが、「すべての景色には意味がある。」ように、岡崎市の守護神ともいえる要の地であります。

大樹寺と日光東照宮の風水関係はこちら

撮  影  日  平成22年2月
撮 影 場 所  六供町/地図
投  稿  者  キノシタ

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2010年02月24日

市街地を望む


岡崎の中心市街地は、乙川が東西に流れ、河岸段丘を形成しています。
乙川を挟む北の丘陵地の坂は、市街地を望む格好の眺望点です。
ここは、岡崎城の鬼門に位置する「甲山(かぶとやま)」の甲山閣付近。

この付近からの眺めは格別です。

岡崎城方面を望むと市街地を見下ろす農地が日をいっぱいに浴びていました。

江戸時代、城の鬼門であるこの地より、岡崎城を中心とする城下町が眼前に広がっていた景色を想像するのも楽しいですね。

撮  影  日  平成22年2月
撮 影 場 所  六供町/地図
投  稿  者  キノシタ

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2010年02月01日

極楽寺眺望



甲山(こうざん)中学校の門前からは、極楽寺を手前に乙川方面の広大な空間が広がります。竜美丘(たつみがおか)の丘陵まで続く市街地景観を眺望できます。乙川の河岸段丘の地形ならではの景色です。

撮  影  日  平成22年1月
撮 影 場 所  中町/地図
投  稿  者   キノシタ

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景観計画策定作業の一環として、2月14日に景観まちづくりシンポジウムを開催します。参加希望の方は、岡崎市都市計画課ホームページより開催チラシをダウンロードし、お申し込みください。ご参加お待ちしております。



セーラ・マリ・カミングスさんが岡崎にやってきます!

同じ場所で・・・同じスタイルで・・・暮らしていると、なかなか気づかないそのまちの良さや本物の価値。

アメリカからやってきたセーラさんは、長野県の小布施のまちの良さや本物の価値を見いだし、それに共感する多くの人たちとともに、楽しく魅力あるまちづくりに取り組んでいます。

岡崎も多くの資産(ヒト・モノ・コト)を持つまち。これらを活かし融合させて新たな魅力や活力を見いだしませんか?

セーラさんが語る小布施での取組みに聞き入ると・・・本質的なことは意外と・・・シンプルで、身近にあって、楽しいことに気づかされます。

たくさんの方に聞いてもらいたいと思います。
ご参加お待ちしています!

【申込】
入場整理券が必要です。
都市計画課都市景観班 電話0564−23−6261
 ①名前、②住所、③電話番号をお知らせください。

【セーラさんってどんな人?どんなことしてるの?】
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