大樹寺と徳川将軍
家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)
徳川将軍家の菩提寺である大樹寺の大方丈には、「将軍お成りの間」や「大名控えの間」があり、その襖には冷泉為恭による立派な障壁画が描かれています。
さて、大樹寺にある「将軍お成りの間」に入った江戸幕府の将軍はだれでしょうか。江戸幕府将軍15人のうち、大樹寺に参詣した将軍は一人だけです。14代将軍徳川家茂です。初代将軍徳川家康も大樹寺に参詣していますが、それは将軍になる前であったり、将軍を退いた後であったりしますから、現職の将軍が大樹寺に来て「将軍お成りの間」に入ったのは、14代将軍徳川家茂ただ一人ということになります。
関ヶ原の合戦で天下を掌握した家康は、全国に検地を施行します。この時、大樹寺領も確定され、鴨田町の一部と門前村で616石余の朱印状を家康からもらいます。(門前村というのは総門の南から鴨田南町そして大門学区にある大樹寺町にかけての村です)この大樹寺領に住む百姓によって収穫されるお米が616石余あり、そこから年貢が大樹寺に納められます。領主としての大樹寺は百姓から五公五民なら半分の約308石、六公四民なら約370石を受け取ることになります。その後も、大樹寺は将軍家菩提寺として、代々の将軍から朱印状を受けます。さて、家康の大樹寺参詣ですが、将軍引退後の慶長17年(1612)の1月です。前年、家康は、父松平広忠への大納言贈官を申請し勅許を得ました。これは若くして苦労の中で亡くなった父への孝行でしょうか。家康は大樹寺で先祖の墓参りをするために駿府を出発します。岡崎城に入り、大樹寺に参詣するのですが、長年の年月で苔むしているのを自分の爪ではがしながら拝みました。家康の大樹寺参詣は、これが最後となりました。
家康没後、三代将軍家光の時に大樹寺の伽藍は整えられます。本堂以下が新築されたのです。この時にあの立派な山門も建てられました。大方丈もは狩野派の障壁画で飾られました。しかし大樹寺は幕末の安政2年(1855)に火事で主要な建物を全焼させています。本堂・大方丈・御霊殿・開山堂・庫裏などが焼失しました。本堂や庫裏とつながっていない多宝塔・鐘楼・山門は無事でした。この火事の後、大樹寺は幕府に再建を願い出ます。財政難の幕府は難色を示すのですが、将軍家菩提寺の大樹寺です。幕府は再建を決定しました。しかし財政難から規模を縮小しての再建となりました。ですから江戸時代の大樹寺は今の大樹寺よりかなり規模が大きかったのです。それは焼失しなかった山門が、本堂と不釣り合いなほど大きいことでもわかります。
この再建された大樹寺を参詣したのが14代将軍家茂です。現職将軍の参詣はこれが最初にして最後です。慶應元年(1865)、第二次長州征伐のために江戸城を出発した家茂は、岡崎城に入った翌日に大樹寺に詣でました。再建された大方丈上段の間(将軍お成りの間)で休憩した後、松平八代の墓や歴代将軍の位牌を拝みました。その後、家茂は大坂城で没し、2年後には大政奉還で江戸幕府は倒されます。
投稿者 大樹寺小学校・都市計画課
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