小豆坂古戦場①

岡崎市まちづくりデザイン課

2010年08月22日 08:30





地名には由緒があり、歴史があります。戦前まで「奥山」といわれ、ため池・原野は狐狸・鳥等の住処であった地は、区画整理や都市計画道路事業の都市計画により、人が生活できる土地になりました。

一方で、近代化により、その景観も大きく変わり、一帯がいわゆる古戦場と呼ばれる地であったという土地の歴史をしっかりと未来につなぐため、「小豆坂古戦場跡」は、平成11年10月7日付けで岡崎市文化財(史跡)に指定されました。指定面積は何十万分の1にすぎませんが、それでも地域の歴史と未来をつなぐ手かがりとしての役割はとても大きいものがあるのです。

尾張の織田と駿河の今川が二度に渡り激戦を繰り広げたところです。この戦いでは雌雄は決せず、以後両者の対立は桶狭間の戦いまで続くことになります。また、三河一向一揆の戦場ともなり、家康が門徒と戦いました。今日、古戦場の面影はなく、「小豆坂古戦場」、「槍立松」の碑に昔日を偲ぶだけです。

【岡崎市指定文化財 案内板】
史跡 小豆坂古戦場跡 355平方メートル
徳川家康登場以前の西三河の地は、東の今川氏、西の織田氏にはさまれ、たびたび戦火にみまわれた。
三河を統一した松平清康(家康の祖父)が天文4年(1535)尾張守山で家臣に殺されると、弱体化した松平氏に対して、尾張の織田信秀(信長の父)は、安城を拠点に矢作川東岸部への進出をはかった。これを望まない今川義元は、天文11年(1542)軍勢を生田原(しょうだはら)に進め、出撃してきた織田勢とこの小豆坂で戦った。この時、織田方の7名が槍をふるって奮戦し、小豆坂七本槍と呼ばれた。彼らが槍を立てて休息した松が槍立松と伝えられる。ただし、この天文11年の戦いはなかったという説もある。
これ以降、今川氏との関係を深めた松平広忠(家康の父)に対して、天文17年(1548)3月、織田信秀は岡崎攻撃の準備をととのえ出陣した。一方、今川義元は広忠救援のため大原雪斎(たいげんせっさい)を大将とする軍勢を送ったため、両軍は小豆坂で出合い合戦におよんだ。この戦いは、松平家臣酒井正親(まさちか)らの活躍により今川・松平連合軍が勝利した。今川・織田両者の争いは、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いまで続いた。
桶狭間の戦いの後、独立をはたした徳川家康の最初の難関は一向一揆との対立であった。永禄7年(1564)、土呂(とろ)・針崎の一揆勢と家康が小豆坂・馬頭原で衝突し、家康方の勝利により一揆は終息を早めることになった。
小豆坂一帯は数々の合戦の場として、槍立松、血洗池、馬洗池、千人塚など多くの伝承を残したきた。江戸時代から徳川創業史をいろどる出来事として著名で、近代以降も建碑などの顕彰活動が相次いだ。ここに設置してある小豆坂古戦場碑は昭和62年に、槍立松及び血洗池碑は平成5年に、いずれも付近の別のところから移設したものである。
【平成11年10月7日指定 岡崎市教育委員会】

撮  影  日  平成22年8月21日
撮 影 場 所  戸崎町/地図
投  稿  者  キノシタ



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