2013年01月03日
百々城と青山氏 東京青山通りの由来
家康学習資料集〜岡崎の心を学ぶ〜
岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)
百々町の七所神社、その北側山麓に中世の城である百々城が築かれていました。岡崎城を守る北の砦です。城主は青山氏でした。
元亀二年(1571)三月、三河に侵入した武田信玄の軍勢は、足助地方から岡崎城目指して突き進んできました。その時、百々城主青山忠門は、百々村に柵を築いて敵の侵入を食い止めました。さらに同四月、下山方面から攻め込んできた武田軍を真福寺村で迎え撃ち退散させました。しかし、この時の激戦で忠門は鉄砲で撃たれて負傷し、歩けなくなってしまいました。弟の俊成が駆け寄って背負い、引き揚げて治療をしたのですが、傷が深く戦死。遺言により百々村池ノ入の山林に葬られました。
武田信玄から岡崎城を守った百々城の青山氏は、その後家康から重く取り立てられます。家康が江戸に入ると、忠門の子忠成は、関東総奉行
・江戸町奉行となりました。さらに忠成の子忠俊は老中として三代将軍家光を補佐し、酒井忠清・土井利勝と「寛永の三輔」と言われました。この青山氏のお屋敷があったところが、今の東京青山通りです。忠成は徳川秀忠の守り役でもあります。江戸に行かずに百々村に残った忠門の弟俊成は、池ノ入山の湧水に因んで青山氏から清水氏に改姓し、代々百々村に住み続け現在に至っています。
青山忠門墓碑。亀の上に碑石を乗せる亀跌型。青山氏は後に丹波篠山城主となるので、篠山藩の青山忠高(忠門の子孫)が明和六年(1769)に建立しています。
百々町の清水家には、今も百々城の石垣が残っています。
撮影日 不明
撮影場所 井田町
投稿者 大樹寺小学校・都市計画課
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岡崎市立大樹寺小学校教材開発部「家康・地域を生かした教材開発」のために より抜粋(一部加筆)
百々町の七所神社、その北側山麓に中世の城である百々城が築かれていました。岡崎城を守る北の砦です。城主は青山氏でした。
元亀二年(1571)三月、三河に侵入した武田信玄の軍勢は、足助地方から岡崎城目指して突き進んできました。その時、百々城主青山忠門は、百々村に柵を築いて敵の侵入を食い止めました。さらに同四月、下山方面から攻め込んできた武田軍を真福寺村で迎え撃ち退散させました。しかし、この時の激戦で忠門は鉄砲で撃たれて負傷し、歩けなくなってしまいました。弟の俊成が駆け寄って背負い、引き揚げて治療をしたのですが、傷が深く戦死。遺言により百々村池ノ入の山林に葬られました。
武田信玄から岡崎城を守った百々城の青山氏は、その後家康から重く取り立てられます。家康が江戸に入ると、忠門の子忠成は、関東総奉行
・江戸町奉行となりました。さらに忠成の子忠俊は老中として三代将軍家光を補佐し、酒井忠清・土井利勝と「寛永の三輔」と言われました。この青山氏のお屋敷があったところが、今の東京青山通りです。忠成は徳川秀忠の守り役でもあります。江戸に行かずに百々村に残った忠門の弟俊成は、池ノ入山の湧水に因んで青山氏から清水氏に改姓し、代々百々村に住み続け現在に至っています。
青山忠門墓碑。亀の上に碑石を乗せる亀跌型。青山氏は後に丹波篠山城主となるので、篠山藩の青山忠高(忠門の子孫)が明和六年(1769)に建立しています。
百々町の清水家には、今も百々城の石垣が残っています。
撮影日 不明
撮影場所 井田町
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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30│Comments(0)
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