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2009年12月26日

浄瑠璃姫

浄瑠璃姫
今からおよそ800年ほど前、鎌倉街道矢作の宿に「浄瑠璃姫」という、それは美しい姫がいました。姫の出生については諸説がありますが、何れにしてもこの辺りの支配的立場にあった者の家に生まれたようです。

承安4年(1174)、浄瑠璃姫16歳の春のこと、ときに源氏再興の大望を抱き、薬売り吉治(きちじ)を伴い、東北地方きっての豪族、藤原秀衡のもとへ向かう牛若丸こと「源義経」が旅の途中でこの矢作の宿に立ち寄り、折しも浄瑠璃姫の奏でる「想夫恋(そうふれん)」の琴の調べに名笛「薄墨(うすずみ)」を合わせ吹いたのが縁となり、二人は別れを惜しむ仲となりました。しかし、奥州へ下る身の義経は、再会の証にと母の常盤御前(ときわごぜん)より贈られた父の愛管「薄墨」を姫に預け、そのもとを去っていったのです。わずか十数日のはかない夢の日々でした。

唯々、義経との再会だけを心の支えに持ち続けた姫の想いは、月日を重ねるほどにますます深まり、ついに心乱れて寿永2年(1183)3月12日、この付近の岩場から乙川の流れに身を投じたのです。その死を痛く悲しんだ両親は、その近くの洞に観音像を祭り、「穴観音」としてその霊を弔いました。

翌年の秋、木曾義仲を討つたびの途中で姫の悲報を聞いた義経は、その霊を弔うために「瑠璃山明大寺」を建立し、厚く供養したと言われています。しかし、この寺も今は無く、姫が入水した「足跡岩」も、「穴観音」も昭和56年(1984)の堤防大改修で無くなりました。

今となっては、明大寺の町名にこそ往時が偲ばれます。なおこの句碑は、昭和39年12月に当時の愛知教育大学教授酒井栄吾先生により、建てられたもので、義経の去った奥州に向けて据えられています。句は、同学長の内藤卯三郎先生の詠まれたものです。

散る花に 流れもよどむ 姫ヶ淵 笈斗山人(おいとさんじん)

平成2年3月 岡崎市役所開発部公園緑地課

岡崎は、徳川氏、足利氏、そして源氏ともゆかりのある歴史あるまちです。そしてこの地は、「人形浄瑠璃」や「歌舞伎」などの日本の伝統芸能のルーツとなる「源氏十二段草子・浄瑠璃姫物語」の舞台でもあるのです。岡崎は現代の日本の仕組みの起源(ルーツ)となったものがほかにもたくさんあると言われています。岡崎出身の家康公や三河武士が江戸時代の基礎を築いたことからすると、何やら誇らしい気持ちになります。ちなみに東京の「青山」という地名は三河武士の青山氏が由来となっています。

*googleMAPで検証すると確かに句碑の向いている先には「奥州平泉」があります。浄瑠璃姫の想いを句碑の向きで表した、その句碑デザインはとてもセンスがありますね。奥州平泉までの距離はなんと約570キロメートル。遠距離恋愛としては、現代でも途方もない距離です。

撮  影  日  平成21年12月
撮 影 場 所  吹矢町/地図
投  稿  者   都市計画課

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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30│Comments(0)歴史の風景
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