2010年12月04日
東公園文化の散歩道〜本多光太郎


東公園は26.4ヘクタールの広大な敷地を活用した自然と文化の公園として親しまれ、初夏の花菖蒲や秋の紅葉をはじめ四季折々を楽しむことができるほか、偉人にまつわる建物や句碑などが点在し「文化の散歩道」を楽しむこともできます。
偉人のひとり、鉄鋼の世界的権威者である本多光太郎は、岡崎市出身です。
【現地案内文】
本多光太郎資料館(勉強部屋)
この建物は、「鉄鋼の父」といわれた本多光太郎博士の勉強部屋です。昭和44年に岡崎市新堀町の生家から寄贈を受け、この地へ移築し、博士の偉業を後世に伝えるため、平成4年度に同博士の資料館として整備しました。木造一部2階建て 延べ87.9平方メートル
本多光太郎博士の記念碑
この記念碑は、本多光太郎博士の勉強部屋を新堀町の生家から、ここ東公園に移築したことに合わせ、同博士の偉業を顕彰しようと、昭和45年2月に建立されたものです。碑文は、博士の信条であった「つとめてやむな」の直筆を、高さ1.9メートル、幅2.4メートルの自然石に彫ったものです。
撮 影 日 平成22年12月
撮 影 場 所 欠町/地図
投 稿 者 キノシタ


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Posted by 岡崎市まちづくりデザイン課 at 08:30│Comments(1)
│歴史の風景
この記事へのコメント
航空計器材料研究所(のちの電気磁気材料研究所(電磁研))初代理事長。日本金属学会初代会長を務めた。
KS鋼、新KS鋼はいずれもその発明当時世界最強の永久磁石であった。当時は磁石も特殊鋼の一種工具鋼(1913年に島根県の安来鉄鋼合資会社(現日立金属安来工場冶金研究所)の伊部喜作氏らが国産初の合金化に成功[1])の一種である磁石鋼という名称になっておりこれが現代の硬質磁性材料と呼ばれる由縁である。
研究組織の運営にも手腕を発揮し、東北大学金属材料研究所の設立に尽力し、同研究所を材料科学の世界有数の拠点に拡充発展させる礎を築いた。
無類の実験好きとして知られ、「今日は晴れているから実験しよう」と言って実験室に籠もり、その翌日雨が降れば「今日は雨だから実験しよう」と言ってやはり実験をしていたと言われる。また自身の結婚式に姿を現さないため、よもやと思って探しに行ったところ大学の研究室で実験をしていたという逸話もある。
自身が指導している研究者に対しては毎日のように実験の進行状況を「どおだあん(どんな状況だ?)」と言って確認していただけでなく、論文に対しても細かい指示を行っていた。このため、本多が輩出した研究者たちは「本多スクール」の出身者ともいわれる。本多は研究者としてだけでなく研究指導者としてもその才能を発揮していたといえるだろう。
身の回りの細かいことは気にかけず大雑把であったという。
東北帝大総長当時、式典での総長による教育勅語朗読は、少なくともどこか一ヶ所を読みが間違うか読み飛ばすのが常であった。
羽織は紐の結び目が左右で大きく偏って結ばれ、雨でも晴れでもいつも洋傘を手に歩いていた。「傘があれば、雨でも濡れんでええわなあ。晴れなら荷物と反対の手にバランスが取れてええわなあ」と語ったと伝えられる。
身なりもこだわらず、着物は古いものをいつまでも長く用い、履物は底が相当磨り減るまで履いた。
雑種の犬を連れて大学に出勤したと伝えられている。
鉄に関して、「鉄」の旧字体「鐵」が「金・王・哉」に分解できることから、「鐵は金の王なる哉」と評した。また色紙に「今が大切」「つとめてやむな」と揮毫したものが残されている。
小さいころは学校の成績も悪く、大きな体で、年中青ばなをたらし、「はなたらしの光さん」とあだ名をつけられる学校嫌いの子だった。
KS鋼、新KS鋼はいずれもその発明当時世界最強の永久磁石であった。当時は磁石も特殊鋼の一種工具鋼(1913年に島根県の安来鉄鋼合資会社(現日立金属安来工場冶金研究所)の伊部喜作氏らが国産初の合金化に成功[1])の一種である磁石鋼という名称になっておりこれが現代の硬質磁性材料と呼ばれる由縁である。
研究組織の運営にも手腕を発揮し、東北大学金属材料研究所の設立に尽力し、同研究所を材料科学の世界有数の拠点に拡充発展させる礎を築いた。
無類の実験好きとして知られ、「今日は晴れているから実験しよう」と言って実験室に籠もり、その翌日雨が降れば「今日は雨だから実験しよう」と言ってやはり実験をしていたと言われる。また自身の結婚式に姿を現さないため、よもやと思って探しに行ったところ大学の研究室で実験をしていたという逸話もある。
自身が指導している研究者に対しては毎日のように実験の進行状況を「どおだあん(どんな状況だ?)」と言って確認していただけでなく、論文に対しても細かい指示を行っていた。このため、本多が輩出した研究者たちは「本多スクール」の出身者ともいわれる。本多は研究者としてだけでなく研究指導者としてもその才能を発揮していたといえるだろう。
身の回りの細かいことは気にかけず大雑把であったという。
東北帝大総長当時、式典での総長による教育勅語朗読は、少なくともどこか一ヶ所を読みが間違うか読み飛ばすのが常であった。
羽織は紐の結び目が左右で大きく偏って結ばれ、雨でも晴れでもいつも洋傘を手に歩いていた。「傘があれば、雨でも濡れんでええわなあ。晴れなら荷物と反対の手にバランスが取れてええわなあ」と語ったと伝えられる。
身なりもこだわらず、着物は古いものをいつまでも長く用い、履物は底が相当磨り減るまで履いた。
雑種の犬を連れて大学に出勤したと伝えられている。
鉄に関して、「鉄」の旧字体「鐵」が「金・王・哉」に分解できることから、「鐵は金の王なる哉」と評した。また色紙に「今が大切」「つとめてやむな」と揮毫したものが残されている。
小さいころは学校の成績も悪く、大きな体で、年中青ばなをたらし、「はなたらしの光さん」とあだ名をつけられる学校嫌いの子だった。
Posted by wiki小僧 at 2015年09月02日 19:20